スチュードベーカー=パッカード
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「スチュードベーカー」の記事における「スチュードベーカー=パッカード」の解説
戦後すぐ、スチュードベーカー工場の労働者人件費は全米自動車労組に加入する必要が無かったと言われるほどの業界一高い水準であった。このことが当時のスチュードベーカーの好況具合を示す。しかしビッグスリーの戦後向け新車開発と値下げ攻勢によってスチュードベーカーの経営は次第に追い込まれた。またデザインでのローウイの関与が無くなった1955年モデル以降はフルモデルチェンジの余裕も無くなった。 その結果、同じく苦境に立たされていたパッカードと1954年に合併し「スチュードベーカー=パッカード・コーポレーション(Studebaker-Packard Corporation)」に改組した。パッカード社はメルセデス・ベンツ米国総代理店であったため、業績が回復しない両社のディーラーはメルセデス・ベンツ、および1958年からダイムラー・ベンツ傘下となっていたアウトウニオンのDKWの併売で辛うじて食いつないだ。日本のパッカード代理店であった 三和自動車がポルシェの代理店に転進したのもこの頃であった。 1958年にパッカードブランドを終了。翌1959年、ビッグスリーに一年先んじてコンパクトカー「ラーク」を発表した。著名な工業デザイナー、ブルックス・スティーブンス(英語版)がリデザインした1953年型スペシャリティカー「ホーク」との二本立てで、ニッチ市場に生き残りを賭けた。そして1963年には起死回生を目指して再びローウィのデザインによるFRPボディの4座スポーツカー・アヴァンティを登場させた。しかし、時既に遅く、翌1964年には米国の生産拠点を閉じ、比較的売れ行き好調だったカナダに移転した。カナダのオンタリオ州ハミルトンの工場は1シフト制で1日48 - 96台という小規模な施設であった。この移転に伴いアヴァンティやホークは生産を終了した。のちに、アヴァンティだけはサウスベンドの遊休施設を利用して、1966年からレオ・ニューマンとネート・アルトマンにより「アヴァンティII」として復活した。 1966年3月16日に最後のスチュードベーカーがラインオフした。ターコイズの1966年ラーク・クルーザーであった。お互いが家族的に親しみあっていた700人の従業員にとっても、市内第四番目の大工場を失うことになったハミルトン市にとっても、同社の乗用車生産撤退は悲しい知らせであった。以後は自動車部品メーカーとなり、様々な会社の傘下を転々としたが、1979年にマグロウ・エディソン(McGraw-Edison)に買収され、スチュードベーカーのブランド名も消滅した。さらなる企業買収により、スチュードベーカーの自動車部品部門は、現在では大手自動車部品メーカー・フェデラルモーグル(Federal-Mogul)の一部となっている。 1964年グランツーリスモ・ホーク 1964年アヴァンティ ウィキメディア・コモンズには、スチュードベーカーに関連するカテゴリがあります。 典拠管理 J9U: 987007371398305171 LCCN: n50023398 NKC: kn20090713012 VIAF: 131315040 WorldCat Identities: lccn-n50023398
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