ジャーヒリーヤ時代の政治情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 02:28 UTC 版)
「ジャーヒリーヤ」の記事における「ジャーヒリーヤ時代の政治情勢」の解説
ムハンマドによるイスラーム共同体が確立される以前、アラビア半島には半島全域を統治する政治権力は存在していなかった。半島南西部(現イエメン)ではヒムヤル王国が成立し、早くからユダヤ教やキリスト教が浸透し、紅海対岸に隣接するエチオピアのアクスム王国やエジプト、東ローマ帝国やサーサーン朝との国際的な影響を受けた。特に6世紀には、ズー=ヌワース(英語版)がヒムヤル王国の(最後の)王となりユダヤ教を国教として政治的に対立していた国内のキリスト教徒の部族勢力を弾圧したことで、エチオピア軍の侵攻と占領を招いた。さらにエチオピア軍による支配に反抗するイエメンの国内勢力がサーサーン朝の軍を招き入れてこれを排除するなど、支配者の交替がめまぐるしく続いた。 また、ペルシア湾岸やシリア、イラク方面ではキリスト教徒のアラブ部族が多かった。4-6世紀当時アラビア半島で代表的な勢力は、イラク南部のヒーラを拠点としたラフム朝(英語版)、シリア中南部ゴラン高原のジャービヤ(Jabiyah)を拠点としたガッサーン朝(英語版)、そしてアラビア半島中央部のナジュド地方を拠点としたキンダ朝(英語版)などである。 また、半島西部の紅海沿岸地域、ヒジャーズ地方では大小のオアシス都市が紀元前から形成されていたが、メッカやのちのメディナであるヤスリブなどの諸都市は、これらの諸王朝とは同盟関係を結ぶなどして独立しており、都市の内外では独自に部族社会を形成していた。メッカのような部族的紐帯が強い都市や地域では、王のようなものがおらず、メッカではクライシュ族の代表者や長老たちが合議によって政治的な決定行っていた。アラビア半島は陸路での交易が活発であった。アラブの諸部族はラクダや馬の隊商を組んでシリアやイラク、あるいはエチオピアやエジプトなど周辺諸地域への交易に積極的であり、メッカなどの拠点的な巡礼地では巡礼による多大な収益も得ていた。またヒジャーズ地方のような都市部やイエメンのような耕地が恵まれた地域などでは交易の他にナツメヤシ畑が開拓され、またイエメンでは5世紀頃から銀山開発のためにサーサーン朝からペルシア人の入植があった。そして、アラビア半島は商業で栄え古代から定期市も沢山あった。アラビア半島東部はディルムン文明が栄えた。
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