ジャージーシティからトレントンへ: 1832年 - 1839年
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「ユナイテッド・ニュージャージー鉄道運河」の記事における「ジャージーシティからトレントンへ: 1832年 - 1839年」の解説
1832年3月7日、ニュージャージー鉄道 (New Jersey Rail Road and Transportation Company) がカムデン・アンド・アンボイ鉄道にほぼ並行して、よりニューヨークに近いジャージーシティを起点として路線の特許を受けた。しかしカムデン・アンド・アンボイ鉄道側の働きかけにより、南はニューブランズウィックまでに制限された。カムデン・アンド・アンボイ鉄道はニューブランズウィックから南へスポッツウッド(英語版)までの区間を建設することになった。1836年にフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道(英語版)と提携したことにより、スポッツウッドの代わりにトレントンまでになった。 1832年11月、ニュージャージー鉄道は競争によって発生する問題を回避するため、ニューアークの東で計画路線に並行していたニューアークターンパイク(有料道路)の支配権を握った。ニューアークから南へニューブランズウィックまで通じていたエセックス・アンド・ミドルセックスターンパイクの株式は1833年4月6日に買収した。路線の大部分はこのターンパイクに直接沿って建設された。当初計画された路線はパセーイク川(英語版)をセンター・ストリート橋で渡り、パーク・プレイスとブロード・ストリートに沿って南へカーブして直接ターンパイクへ通じていた。橋の西側から支線が川に沿って南へ分岐し、その後南西へブロード・ストリートの南端で本線へ接続するようになっていたが、こちらが本線となって、計画されていたブロード・ストリートに沿った路線は実際には建設されなかった。 1833年11月24日に、ニュージャージー鉄道は脅威を排除するために、パセーイク川およびハッケンサック川(英語版)に架かる橋を独占していたプロプライエターズ・オブ・ザ・ブリッジズ・オーバー・ザ・リバーズ・パセーイク・アンド・ハッケンサック (Proprietors of the Bridges over the Rivers Passaic and Hackensack) を買収した。1852年頃、ニュージャージー鉄道はパセーイク川およびハッケンサック川の独占を守るために、1849年設立のニューアーク・プランク・ロード・アンド・フェリー(英語版)を買収した。 ニュージャージー鉄道の定期運行は、バーゲン・ヒル(英語版)の仮設線路を使用してニューアークとジャージーシティの間で1834年9月15日に開始された。エリザベスまでの延長区間は、ブロード・ストリート南端からのターンパイクを利用して、1835年12月21日に開通した。ラーウェイ(英語版)までの運行は、やはりエリザベスの南からターンパイクに沿って、1836年1月1日に開始された。1月11日までは、機関車はニューアーク以南のみで使用されたが、それ以降もニューアーク以東では馬力運行がいくらか継続された。7月11日にニューブランズウィックの東で路線が開通し、残りの区間へは乗合馬車に接続していた。これにはイゼリン(英語版)以北でターンパイクが使用された。1836年9月8日、ニュージャージー鉄道はラリタン川の渡河を独占をしていたニューブランズウィック橋梁会社の過半数の株式を買収した。ラリタン川に架かる鉄道が上、道路が下の2階建ての橋は1837年10月31日に開通し、ニュージャージー鉄道はニューブランズウィックへ到達した。ニューブランズウィック橋梁会社は1838年5月7日に、橋の下部の道路で通行料金を徴収することを認可された。古い1795年完成のオルバニー・ストリート橋(英語版)は1849年に撤去されたが、のちに再建された。 ジャージーシティとニューブランズウィックと結ぶ路線で最後に完成となる、バーゲンヒルの切通し区間は1838年1月22日に開通し、それまでの丘を越える仮設線路を置き換えて、馬力の使用が終了した。 1837年3月15日に、カムデン・アンド・アンボイ鉄道の路線特許に追加が認められ、ニュージャージー鉄道と接続するニューブランズウィックへの支線を、トレントンを通過してロワー・トレントン橋(英語版)およびフィラデルフィア・アンド・トレントン鉄道と接続するために、スポッツウッドではなくボーデンタウンから分岐させることになった。この路線の一部は、デラウェア・アンド・ラリタン運河やニューブランズウィック・アンド・トレントン・ターンパイクに沿って建設することができた。 この支線の建設は、デラウェア・アンド・ラリタン運河の東岸にボーデンタウンとトレントンの間で1837年9月に開始された。支線の最初の区間は1838年4月4日に開通した。ニューブランズウィックまでの延長工事はその年の6月に開始され、1839年1月1日に開通した。この支線はトレントンから北東へ運河の東岸に沿って続けられ、キングストン(英語版)で運河から分かれて地方を横断してニューブランズウィックの南西にあるミルストン・ジャンクションへと至っていた。同日、ニュージャージー鉄道はニューブランズウィックとミルストン・ジャンクションの間を完成させた。ニュージャージー鉄道はこの経路の3分の1を形成していたが、フィラデルフィアとニューヨークを5時間30分(サウス・アンボイ経由の6時間50分から短縮)で結ぶこの共同運行の収入の6分の1のみを得られるだけであった。
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