ジャージーの支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:48 UTC 版)
「エドマンド・アンドロス」の記事における「ジャージーの支配」の解説
ジャージーの統治についてもアンドロスにとって問題を生じさせた。ヨーク公はハドソン川より西の領域を領主のジョン・バークレーとジョージ・カートレットに与えており、バークレーはその西側の部分(後に西ジャージーと呼ばれる)をクエーカー教徒の共同経営者に譲った。バークレーはその領地の権利をこの集団には渡さず、ヨーク公がバークレーとカートレットに渡した権利の性質が問題となった。ヨーク公は1674年に自分に渡された2回目の勅許が、バークレーとカートレットに渡されていた前の勅許に代わるものだと考えていたことも一因だった。 このために、アンドロスが東ジャージーにその統治範囲を広げようとしたときに紛争になった。この地はカートレットの従弟であるフィリップ・カートレットがジョージのために統治を行っていた。アンドロスはイングランド滞在中に与えられた命令に基づき、1680年にジョージ・カートレットが死んだ後は東ジャージーに対するニューヨークの権限を主張し始めた。アンドロスとカートレット総督との間の友好的な個人関係があったにも拘わらず、統治の問題は結局アンドロスがカートレットを逮捕させる事態に発展させた。ハドソン川のジャージー側にある港で関税を集めることを中心とする論争が続いていた1680年、アンドロスはエリザベスタウンにあったフィリップ・カートレットの家に兵士1個中隊を送った。この事件に関するカートレットの証言に拠れば、彼は兵士に殴られ、ニューヨークの監獄に入れられたとのことである。 アンドロスが仕切ったカートレットの裁判で、あらゆる罪状に対して陪審員はカートレットを無罪とした。カートレットはニュージャージーに戻ったが、逮捕の時にうけた傷がもとで健康を害し、1682年には死んだ。この事件の後、ヨーク公がカートレットに与えた東ジャージーに対する権利主張を取り下げた。 ウィリアム・ペンが送った開拓者達が現在のバーリントン市を設立しようとしたときにも幾らか軽い問題が起こった。アンドロスはヨーク公の許可が無ければそこに入植する権利が無いと主張したが、彼らがニューヨーク総督の権限下に入る委託を受けることに合意した後で、入植を許した。この状況は、1680年にヨーク公がペンのために西ジャージーに残っていた権利を放棄したときに、恒久的に解決されることになった。
※この「ジャージーの支配」の解説は、「エドマンド・アンドロス」の解説の一部です。
「ジャージーの支配」を含む「エドマンド・アンドロス」の記事については、「エドマンド・アンドロス」の概要を参照ください。
- ジャージーの支配のページへのリンク