ジャバル・アッターリフ
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「ナグ・ハマディ写本」の記事における「ジャバル・アッターリフ」の解説
文書発見の経緯は、アラブ人農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から壷を掘り出したことにさかのぼる。1945年12月、ムハマンドは、弟のカリファ (Kalīfah) と共にラクダに乗って、ジャバル・アッターリフ (Jabal al-Tārif) の南側へ出かけた。ジャバル・アッターリフは、ナイル峡谷の北壁を下限として北側に連なる石灰岩からなる山岳地帯で、その南斜面には150以上の洞穴がミツバチの巣のようにあいている。これらの洞穴はもともとは自然にできたものだったが、既に第6王朝の時期には中をくりぬき彩色を施して墓所として使っていた。 この地方では、サバッサ(硝酸塩を含んだ軟土)をジャバル・アッターリフから掘り出して肥料として使っていた。ムハマンドがジャバル・アッターリフからの落石と思われる巨大な石の周りを掘ってサバッサを採取していたところ、鍬の先に何かが当たった。掘り下げてみると、4つの把手が付いた高さが1mもある素焼きの壷が現れた。この壷が出てきた場所は、ジャバル・アッターリフのふもとの第六王朝時代の墓地跡(ケノポスキオンからほぼ真北に約30km北上した付近)から東に約1km離れた場所である。 当初、ムハマンドは壷を割ることをためらっていた。ムハマンドの証言によると、中にジンが入っているのではないかと恐れたからである。しかし、金(きん)が入っているかもしれないと思い直して、鍬で壷を割ってみた。壷の中から出てきたのは13冊の本で、パピルスでできており皮で装丁されていた。ムハマンドはその本を服でくるんでから肩にかけて、家に持ち帰った。この本が現在ナグ・ハマディ写本と呼ばれているものである。ムハマンドは持ち帰ったあと本をばらして、かまどの隣に敷いてあったわらの上に置いた。これらの写本は最終的には全てコプト博物館の収蔵品になったが、そこに至った経緯は複雑である。 この発見の半年前の1945年5月7日の夜に、2人の兄弟の父親アリー(畑の灌漑の夜警の仕事をしていた)が、見回り中に1人の泥棒を殺した。アリーはその仕返しを受けて翌朝までに殺された。この事件が、後のナグ・ハマディ写本の運命と関係してくる。 ムハマンドが写本を発見した1ヶ月後、家の近くの道端で日中の暑さで眠りこけている男がいた。隣人がこの男を見かけると、男を指差してムハマンドに、お前の父親を殺したのはこの男だ、と言った。この男は、アーマド・イスマイル (Ahmad Īsmāʻīl) という名で、警官イスマイル・フセインの息子だった。アーマドはハワラ族で、父親はアル・カスル (al-Qasr) 村の外からやってきた人物だったので、村では疎外されていた。 ムハマンドは、家に駆け込むと兄弟と母親にこのことを告げた。アーマドを捕まえると、一家で、アーマドの手足を徐々に切り刻み、心臓をえぐり出して全員でむさぼり食い、血の復讐を行った。ハワラ族はジャバル・アッターリフのふもとに村を作って住んでいたので、復讐されることを恐れて、この後ムハマンドは壷を見つけた場所に近づこうとはしなかった。後に、ムハマンドを説得して壷を発見した場所まで案内させたのだが、そのためには変装をさせ、政府の護衛を付け、更に金品を見返りに与えねばならなかった。
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