ジャニーズ事務所の設立
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「ジャニー喜多川」の記事における「ジャニーズ事務所の設立」の解説
1960年代初頭、ジャニーは自分の居住していた東京都渋谷区・代々木の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」にて、近所の少年たち約30名で構成された少年野球チームのコーチを務めていた。そのチーム名は、「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て、「ジャニーズ少年野球団」となった。このチームのメンバーには、浜田光夫・小畑やすし・設楽幸嗣等もおり、応援団には松島トモ子も居た。このチームはプロ野球の球団や力道山等に支援されており、後に練習場も池袋にある立教大学のグラウンドへと移行した。 ある日、雨で野球の練習ができなくなり、このチームのメンバーの中から渋谷区立代々木中学校の生徒4名を選抜し映画館に連れて行く。そして、そこで鑑賞したミュージカル映画『ウェストサイド物語』に一同感動し、エンターテインメント事業を興業することを決意した。1962年(昭和37年)4月、自身が結成させた野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成する。 最初は東京都豊島区・池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現: 名和プロダクション)」に在籍をしていたが、1962年(昭和37年)6月にジャニーズ事務所を創業、創業当初は渡辺プロダクションと業務提携し渡辺プロを窓口としていたが、1965年(昭和40年)には事務所が正式に構えられる。1975年(昭和50年)1月、正式に株式会社として法人登記した。 姉のメリーは、1950年代から東京都新宿区・四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と内縁関係となり、1972年(昭和47年)の藤島の離婚成立後に結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を創業するとバーは廃業をし、事務所の経理を担当するようになった。
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