ジャズ・ハーピストとしての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 06:47 UTC 版)
「ドロシー・アシュビー」の記事における「ジャズ・ハーピストとしての活躍」の解説
ドロシーは徐々にピアノからハープへと楽器を切り替え、1952年にはハープを購入し、メインの楽器として演奏するようになった。同年には、フィラデルフィアのナイト・クラブでプロとしての契約を得ている。ジャズにおけるハープの使用は、キャスパー・リアドン(英語版)によるジャック・ティーガーデン(英語版)とベニー・グッドマンとの1930年代の録音が先例として挙げられるが、一般的とはいえず、ハープはクラシック音楽に属しているとする否定論者もいた。ドロシーは無料のコンサートを開催したり、パーティーや催し物での演奏をとおして、ジャズ・アンサンブルにおけるハープの宣伝に努めた。その後ドロシーは、デトロイトのクラブにも務めた。また1950年代の間に『ザ・ジャズ・ハーピスト(英語版)』『ヒップ・ハープ(英語版)』『イン・ア・マイナー・グルーヴ(英語版)』といったアルバムを発表している。 おそくとも1960年代初頭までに、ドロシーはドラマーのジョン・アシュビー(John Ashby)と結婚した。このころドロシーは、WJR(英語版)局で自身のラジオ番組を持っており、社会問題についての発言なども行っていたという。また夫とともに、アフリカ系アメリカ人の演劇集団であるアシュビー・プレイヤーズを結成している。1962年にドロシーは、〈ダウン・ビート〉誌の年間調査において「オールスター」ジャズ奏者の一人に選ばれている。1960年代には、代表作とされる『アフロ=ハーピング(英語版)』のほか『ドロシー・アシュビー(英語版)』『ソフト・ウィンズ(英語版)』『ザ・ファンタスティック・ジャズ・ハープ・オブ・ドロシー・アシュビー(英語版)』といったアルバムを発表しており、このころの主な共演者としてはジミー・コブ、エド・シグペン、リチャード・デイヴィス(英語版)、フランク・ウェス(英語版)らが挙げられる。1960年代後半にアシュビー夫妻のトリオはカリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を移し、全米各地をツアーで回った。 1970年に発表した『ルバイヤート・オブ・ドロシー・アシュビー(英語版)』においては、箏の演奏も行っている。1970年代には、ビル・ウィザースの協力のもと、スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、バリー・マニロウ、スタンリー・タレンタイン、フレディ・ハバード、ビリー・プレストン、ボビー・ウーマック、アース・ウィンド・アンド・ファイアーといった一線級アーティストの録音に参加している。 ドロシーの最後のアルバムは、1984年に発表された『ジャンゴ / ミスティー(英語版)』と『恋のアランフェス、イエスタデイ(英語版)』の2枚である。
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