ジャズ・トランペット奏者として
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「ボリス・ヴィアン」の記事における「ジャズ・トランペット奏者として」の解説
成果が得られない長編小説の創作活動に嫌気がさしていたヴィアンは、劇や短編小説や歌などの創作に熱心になる。1958年のダリウス・ミヨーとのオペラフィエスタでの共演など、玄人はだしの活躍ぶりを見せた。ヴィアンは、パリのサン・ジェルマン・デ・プレの「タブー(Tabou)」というクラブでよく演奏していた(現在、そのクラブは存在しない)。当時、ヴィアンは詩の中でも「trompinette」と親しんで呼んでいたポケット・トランペットで演奏していた。 ヴィアンのもっとも有名なシャンソン作品は、インドシナ戦争中に作詞された反戦歌『脱走兵(Le Déserteur)』(作曲:H.B.ベルグ HaroldBernard Berg)である。この歌はフランスの人々に広く愛唱されたが、当時ラジオでの放送禁止曲ともなった。 ヴィアンの歌は、セルジュ・レジアニ、ジュリエット・グレコ、ナナ・ムスクーリ、イヴ・モンタン、マガリ・ノエル、アンリ・サルヴァドールなど様々なアーティストにカバーされている。セルジュ・ゲンズブールなどは、「ステージ上でボリス・ヴィアンに出会ったことで、自分も腕試しに作曲をしてみようと思った」と述べている。 ジャズ・ファンだったヴィアンは、デューク・エリントンやマイルス・デイヴィスなど、パリを訪れたジャズ・アーティストたちとフランスとの橋渡し的な存在として活動した。また、フランスのジャズ雑誌(『ル・ジャズオット』や『パリ・ジャズ』など)にフランスとアメリカ双方のジャズを扱った数多くの評論を執筆した。しかし、概して黒人のジャズこそを本物のジャズと見なす傾向が強く、白人のジャズプレイヤーには辛辣な批評を示した。 ヴィアンは、生涯アメリカを訪れたことはなかったが、アメリカへのあこがれは強く、ジャズとアメリカを扱った題材が作品の大部分を占めている。
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