シカゴ大学/ヤーキス天文台
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 20:37 UTC 版)
「ナンシー・ローマン」の記事における「シカゴ大学/ヤーキス天文台」の解説
大学卒業後、1946年3月にシカゴ大学大学院に入学。スワースモア大学よりも講義を受けやすいと感じた彼女は、オットー・シュトルーベ、ジョージ・ファン・ビースブルック、ウィリアム・ウィルソン・モーガンの3人の教授に相談し、それぞれの教授に天文学の観測プロジェクトに参加させてもらえるように依頼した。シュトルーベは理論プロジェクト、ファン・ビースブルックはデータ分析プロジェクト、モーガンはおそらくケンウッド天体物理観測所の屈折望遠鏡と思われる12インチの望遠鏡を使った観測プロジェクトを提供した。モーガンは、当初ローマンを嫌悪し、半年間口をきかなかったこともあったが、ローマンの研究を支援し続けた。彼女は、おおぐま座運動星団についての博士論文で1949年に博士号を取得した。 ワーナーアンドスワシー天文台での2ヶ月間の休息の後、彼女はモーガンの要請でヤーキス天文台に戻り、研究員として彼の下で働いた。彼女はさらに6年間ヤーキスで働き、当時シカゴ大学が管理していたテキサスのマクドナルド天文台や、海軍研究局の支援を受けてトロントのデービッド・ダンラップ天文台にもたびたび足を運んだ。研究職は恒久的なものではなかったため、ローマンは教官となり、後に助教授になった。 ヤーキス在籍中は、F型およびG型スペクトルの恒星と高速度星に焦点を当てた天体分光学の研究を行った。彼女の研究は、1950年には3つの論文が1年間の引用件数3,000以上で引用件数トップ100にランクインするなど、当時最も引用件数の多い論文のいくつかを生み出した。彼女は、ミシガン州のウェイン州立大学と南カリフォルニア大学から研究職のオファーを受けたが、これらの大学には十分な観測装置がなく、それは彼女にとって非常に重要な問題であると感じたため、オファーを辞退した。彼女は、データ解析のため彼女は新しい位置天文学の機器を使って写真乾板を計測するためアルゴンヌ国立研究所へ出張した。それは、ヤーキスに導入するよう説得できなかった機器であった。彼女はまた、1954年にデータ分析用の当時最新のデジタルコンピュータの購入を提唱したが、コンピューターはこの目的には役に立たないと考えていた当時の部長スブラマニアン・チャンドラセカールに断られた。ローマンは最終的に大学での仕事を辞めることとなったが、それは当時、女性が終身雇用の研究職に就くことができなかったためである。ジェラルド・カイパーは、新しい分野である電波天文学でアメリカ海軍調査研究所 (NRL) のポジションを彼女に勧めていた。
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