シカゴ大学在籍
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1907年7月25日、金太郎はワシントン州シアトルに到着し、アメリカへの第一歩を踏み出した。金太郎はアメリカにいる知人を頼ろうと思い、シアトルから連絡船に乗ってサンフランシスコへ向かった。自伝によると、サンフランシスコに到着したのは夜12時半で、船長に波止場は危険だから一夜を明かしてから下船するようにと言われたが、金太郎はそれを無視し、船内で意気投合した自称柔道4段の日本人と勝手に下船したところ、すぐにピストル強盗に出くわし、自称柔道4段が警官を呼びに行っている間に、金太郎がひとりで2人の強盗を投げ飛ばしたという。サンフランシスコに到着した金太郎は、他の日本人と同じように皿洗いや農場の作男などといった下働きの仕事に就いた。 1908年11月9日、金太郎は與一郎との約束にしたがって勉強をするため、シカゴ大学の家庭勉学学部(ホーム・スタディ・デパートメント)に入学した。與一郎は入学の8日前に71歳で亡くなったが、金太郎が日本からの便りでそれを知ったのは翌1909年夏のことだった。金太郎が入学した家庭勉学学部は、在学で働くことを許可され、大学構内に来られない学生が、大学から渡される教材を用いて自宅で勉学する学部であり、現代の通信教育にあたる。入学当時の金太郎は、サザン・パシフィック鉄道の停車場構内にあるレストランで給仕として働いており、後に雪洲の弟子となる青山雪雄はその姿を見かけたという。 金太郎は入学当日から政治経済学原論第一専攻科目と、政治経済学原論第二専攻科目を受講し、1909年12月23日に履修を終えた。金太郎の学籍記録には、政治経済学原論以外の科目を履修した記録が全くなく、また学士号や博士号を取得したという記録もなかったことから、金太郎がシカゴ大学に在籍したのがわずか1年1か月余りに過ぎず、卒業はしていないと考えられている。しかし、後年に雪洲は「シカゴ大学を卒業した」と言い続けている。また、自伝では、大学在籍中にアメリカンフットボールのチームに所属していたと主張しているが、大学側にそのような記録は残っていない。その後、金太郎はアイスクリーム製造業に手を付けたり、メキシコの物件を扱う不動産会社に就職したりするも満足はせず、3、4年間も先の見えない苦しい生活を送り、兄宛ての手紙には「口には出せないほどの辛酸をなめた」と述べている。
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