シカゴ万博以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/10 06:38 UTC 版)
「フェリス・ホイール」の記事における「シカゴ万博以降」の解説
1894年4月に閉鎖し解体され倉庫に保管されていたが、翌年に最初に作られた場所近くのリンカーン・パークで再建された。そのアミューズメントパークがあったN.クラーク通り2619から2665には、現在マクドナルドと高層住宅が建っている。当初の計画ではビアガーデンとボードビルショーも設けられる予定だったが、酒の販売権は認められなかった。当時その近くに住んでいたウィリアム・D・ボイスはホイールの所有者に対して撤去するよう巡回裁判所に提訴したが、失敗している。 1896年に映画の発明者であるリュミエール兄弟はフェリス・ホイールを含むライトウッド通りとクラーク通りの交差点のショットフィルム (カタログ番号338) を撮影している。これはシカゴを撮影した最初のフィルムの1つである。 1895年から1903年までその場所で稼働し、シカゴ・ハウス・レッキング・カンパニーにより8,150ドルで買い取られた 。 その後再び解体され1904年のセントルイス万博に鉄道で運ばれた。そこでは215,000ドルを稼ぎ出した。最終的には1906年5月11日にダイナマイトを使用して爆破解体された。
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