サモア内戦
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衝突した勢力 | |||||||
イオセフォの支援国 支援: ![]() |
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指揮官 | |||||||
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サモア内戦(英: Samoan Civil War)は、南太平洋のサモア諸島でサモア人同士が対立し合う中で勃発した紛争である。
この戦争は、大まかに1886年から1894年まで続き、主にマリエトア・ラウペパ、マタアファ・イオセフォのどちらがサモア王になるかでサモア人同士で戦っていた。
しかし、ドイツ軍が一部の局面で干渉した。また、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、イギリスとの間で海軍の膠着状態が存在した。
1889年のアピアサイクロンにより、サモアに駐留していた6隻のドイツ船、アメリカ船が破壊されたことで、3国はラウペパを王にすることに決めた[2]。
背景
ドイツは、当代の王マリエトア・ラウペパが簒奪され追放された後、タファイファすなわちサモアの王に選んだタマセセを守るためにサモアで戦った。タマセセとドイツの同盟は、人気があったサモア首長マタアファ・イオセフォが率いる対立派閥と対峙した。ドイツは、新帝国と商業的な利益を拡大しようと目論んでいた。アメリカもまた、サモアの商業的な利益を守ろうとして、3隻の戦艦、ヴァンデーリア、トレントン、ニプシックを島の監視のために派遣した。さらに、イギリスも同様に戦艦カリオペを派遣した。

ハワイ王国の首相ウォルター・ギブソンは、長い間、太平洋において帝国を樹立することを目標にしていた。1887年、彼の政府は、植民地主義の権力に対抗するための同盟相手を探すために、国産の戦艦カイミロアをサモアに派遣した。それは、ドイツ海軍からの疑惑と乗組員の行動に対する当惑で終わった[3]。
戦争
1887年、マタアファがいた反乱軍の村をドイツが砲撃し、アメリカ所有の財産を破壊したことで、アメリカとの緊張が高まった。ドイツが自らと対立する村に砲撃した後に、1889年9月のヴァイエルの戦いで、マタアファの戦士が侵略中のドイツ部隊を壊滅させ、彼らのプランテーションを略奪した[4]。戦時中、アメリカ、イギリス、ドイツの戦艦はサモア危機として知られる膠着状態にあった。1889年のアピアサイクロンにより、アピア湾のドイツ戦艦とアメリカ戦艦が破壊され、敵対行為が停止したことで、西洋3国は最終的にラウペパをサモア王に復帰させることに合意した[5]。しかし、サモアの紛争は1894年にラウペパ が復位するまで続いた。
第二次サモア内戦
9年後、マリエトア・ラウペパが死去し、1898年に第二次サモア内戦が勃発し、再び敵対行為が発生した。しかし、この紛争は、1899年の三国間条約により、諸島が分割されたことによってすぐに終結した。
関連項目
- 1889年のアピアサイクロン
- マリエトア・ラウペパ
- サモア危機
- 第二次サモア内戦
- マタアファ・イオセフォ
- アピア包囲
- 第一次ヴァイエルの戦い
- 三国間条約 (1899年)
注釈
- ^ Morlang (2008), p. 128.
- ^ Editor. “Samoan Showdown – Germany Risks War With America In The 1880s | Militaryhistorynow.com”. 2014年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月13日閲覧。
- ^ “Mormon Beginnings in Samoa: Kimo Belio, Samuela Manoa and Walter Murray Gibson” (英語). Brigham Young University. 2021年3月13日閲覧。
- ^ Kohn, George C (1986). Dictionary of wars, Third Edition. Facts on File Inc, factsonfile.com. pp. 479–480. ISBN 0-8160-6577-2
- ^ Stevenson, Robert Louis (1892). A Footnote to History: Eight Years of Trouble in Samoa. BiblioBazaar. ISBN 1-4264-0754-8
参考文献
- Stevenson, Robert Louis (January 1996). “VII_The Samoan Camps”. A Footnote to History: Eight Years of Trouble in Samoa. eBooks@Adelaide, The University of Adelaide Library. pp. 49. ISBN 978-0-8248-1857-9. OCLC 227258432
- Morlang, Thomas (2008) (ドイツ語). Askari und Fitafita. "Farbige" Söldner in den deutschen Kolonien. Berlin: Ch. Links Verlag
サモア内戦
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「名誉勲章受章者の一覧」の記事における「サモア内戦」の解説
サモア内戦とは、19世紀末に南太平洋のサモア諸島で起こった一連の政治的闘争に対するヨーロッパ側からの呼称である。ドイツ帝国、イギリス、アメリカによる一連の戦闘を指し、1899年の諸島分断によって終結した。また、紛争の最終段階は特に第二次サモア内戦と呼ばれる。第一次内戦は8年間続き、当事者であるサモアの各勢力はドイツ、イギリス、アメリカから大量の装備を受け取り、訓練を施され、時にはそれら大国から援軍が送られることもあった。これらの3大国は、海運事業における石炭の補給拠点としてサモアを評価し、加えて所有権が1870年以降明確ではなかったサモアの領土にも価値を見出していた。 画像名前所属階級場所日付部隊備考— フレデリック・T・フィッシャー(英語版)Frederick T. Fisher 海軍 一等砲術兵曹Gunner's Mate First Class, E-6 USS フィラデルフィア艦上 1899年4月1日 USSフィラデルフィア 敵前での勇敢な行いにより受章。 — ブルーノ・A・フォースタラー(英語版)Bruno A. Forsterer 海兵隊 軍曹Sergeant, E-5 サモア 1899年4月1日 不明 敵前での勇敢な行いにより受章。 ヘンリー・L・ハルバート(英語版)Henry L. Hulbert 海兵隊 一等兵Private, E-1 サモア 1899年4月1日 不明 敵前での勇敢な行いにより受章。後の第一次世界大戦では、海軍十字章および殊勲十字章を受章している。 — マイケル・J・マクナリー(英語版)Michael J. McNally 海兵隊 軍曹Sergeant, E-5 サモア 1899年4月1日 不明 敵前での勇敢な行いにより受章。
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