ゴードンの任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:08 UTC 版)
1882年のウラービーの乱以降、イギリスはエジプトを事実上保護国化していたが、スーダンはこの時エジプトの行政下にあったため、イギリス政府はあくまでスーダンにおける反乱はエジプト国内の問題であると考えていた。よって当初反乱はエジプト政府が対応していたが、それは1883年11月のエル・オベイドの戦い(英語版)におけるエジプト軍の全滅という最悪の結果を招く事態となった。この勝利によりマフディー軍は膨大な量の装備品を鹵獲し、ダルフール、コルドファンを含むスーダンの広域に勢力を広げた。 自らをマフディーと宣言するムハンマド・アフマドは自分がイスラーム国家の救済者であると主張し、エジプト支配からの独立を望むスーダンの多くの人々の支持を得た。 ここにきてようやく事態の深刻さに気づいたイギリス政府は動き出した。時の首相ウィリアム・グラッドストンと陸軍大臣ハーティントン侯爵はエジプトの財政的な理由、また北部のアラブ人反乱への対処などからスーダンの鎮圧はしばらく困難と判断し、エジプト政府に対し全守備隊をスーダンから撤退させることを命じた。そこで撤退を成功させるために任命されたのが1876年から1879年までスーダン総督を務め、現地での人気も高かったチャールズ・ゴードンであった。彼はアロー戦争で常勝軍を率いて勇名を馳せた実績があった。 彼のスーダンに対する姿勢はグラッドストンとは全く異なるものであった。彼はマフディー国家を徹底的に攻撃してスーダンの支配権を奪い返し、エジプトから掃討すべきだと考えていた。彼の懸念はエジプト軍の士気が数度にわたる敗戦ですっかり低迷していることであった。ゴードンの積極姿勢はサミュエル・ベイカー卿やガーネット・ウォレスリー卿のような帝国主義者から歓迎され、彼の意見は1884年1月にザ・タイムズ紙に掲載された。 ゴードンは政府にスーダンから守備隊を撤退させると宣言し、彼はイギリス政府とエジプト当局より100,000ポンドを与えられ、あらゆる援助と協力を約束された。ハルツームへ向かう途上にゴードンは同行していたスチュアート大佐とともにマフディーに怯える現地の部族長の集会に参加するためにバルバルに立ち寄ったが、ここでエジプト政府がスーダンから撤退しようとしていることを明かしてしまうという重大なミスを犯した。自分達が見捨てられたと考えた部族民達は動揺し、彼らの忠誠心は大きく揺らいだ。
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