コモンウェルスを巡って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:06 UTC 版)
「エリザベス2世」の記事における「コモンウェルスを巡って」の解説
従来、イギリスは広大な植民地を有していたが、米国の様な独立を避けるため、徐々に自治権を与えて「自治領」(Dominion)としていった。英帝国(British Empire)は、英連邦(British Commonwealth of Nations)となり、1931年12月11日のウェストミンスター憲章により英連邦体形に法的根拠が与えられて、各地域は実質的な独立国として、英国王に忠誠を誓う同君連合のように結びついた。 戦後は1947年8月15日にインドとパキスタンが独立しながらも、コモンウェルスへの残留を希望し、認められたため、イギリス連邦から同君連合の要件は排除され新たな「Commonwealth of Nations」となった。1949年4月26日のロンドン宣言(英語版)により、イギリスの国王/女王はコモンウェルスの元首であるが共同の価値観で結びつく平等な連合体の象徴に変容した。エリザベス2世女王の即位後も、先述の通り独立を果たす国々があり、女王を国家元首とする国々の総称である「英連邦王国」(Commonwealth realm)と、君主制・共和制を問わず加盟できる「英連邦」(Commonwealth of Nations)に区別される。 女王自身は、各国に平等に接し、また祖母メアリ王妃ゆかりのマールバラ・ハウス(英語版)を英連邦事務局として貸与している。コモンウェルスの首脳が集まる会議は、19世紀末以来たびたびロンドン開かれてきたが、英国のスエズ以東撤退後は、コモンウェルス首脳会議(英語版)(CHOGM)として各国の輪番となった。1971年、その第1回であるシンガポールでの会議には、EC加盟に執念を燃やすエドワード・ヒース首相の強い反対により、女王が折れて欠席した。1973年に、英国はECに加盟を果たし、女王は各国へのお礼として、同年にはオランダ王国、ルクセンブルク大公国、そして西独の三組の国賓をロンドンで歓待した。また、5月には夫君エディンバラ公だけでなくチャールズ王太子をも同伴し訪仏した際には、かつてのエドワード8世であるウィンザー公夫妻を訪問した。伯父エドワードは、エリザベス2世の訪問から10日後に逝去した。 ヒースや世論の関心がヨーロッパに集まった1973年であったが、女王は恒例のクリスマスメッセージで、コモンウェルスとの紐帯の重要性を強調した。
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