コモンウェルス期から日本軍占領期へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 15:03 UTC 版)
「フィリピン共産党 (PKP)」の記事における「コモンウェルス期から日本軍占領期へ」の解説
結党翌年の1931年9月には非合法化され指導部が検挙された。しかしサクダル党(反米親日を掲げ武装蜂起した)に見られるような、反体制派と親日派勢力の連合を恐れたコモンウェルスのマニュエル・ケソン大統領により1937年10月に共産党は合法化された。これ以降、共産党は社会改革を進めるケソン政権に一定協力しながら勢力の拡大を図る路線をとることとなった。1938年には、中部ルソン地方の農民運動を基盤とするフィリピン社会党と合同し、従来都市部の労働運動を中心としていた共産党の性格は大きく変化した。1942年日本軍がマニラを制圧し軍政を開始すると、マニラの党中央部は弾圧により壊滅、検挙を免れた中部ルソン地区の指導者によって党は維持されることとなった。社会党出身の党幹部ルイス・タルクは、フクバラハップ(フィリピン抗日人民軍)を結成、米軍との協力関係を保ちつつも、日本軍やそれに協力するフィリピン人地主に対して抵抗闘争を組織し、農村部で党の支持基盤を拡大した。
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