ケーストゥティスの簒奪とヨガイラの復権
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「リトアニアの内戦 (1381年-1384年)」の記事における「ケーストゥティスの簒奪とヨガイラの復権」の解説
1381年の年明け、ドイツ騎士団はドヴィディシュケス条約の内容を遵守しつつ、トラカイ公国とジェマイティヤを2度にわたり襲った。トラカイを襲撃中、騎士団は初めて射石砲を兵器として使用し、ナウヤピリスを破壊して3000人を捕虜として連れ帰った。1381年8月、オステローデ(現在のポーランド領オストルダ)のコムトゥルで、ケーストゥティスの娘ダヌテの洗礼の代父でもあったクーノー・フォン・リーベンシュタインが、ケーストゥティスに密約の存在を知らせた。ケーストゥティスが息子のヴィータウタスに密約について何か知っていたのかどうかを訊ねると、ヴィータウタスは密約について何も知らず、その情報は一族を分断するためのドイツ人たちの罠なのではないかと疑った。1381年、ケーストゥティスはスキルガイラに対するポラツク市の反乱に乗じ、クーデタを起こした。ヨガイラがポラツクの反乱鎮圧のために大公国の首都ヴィリニュスを離れたため、これを好機と見たのである。ケーストゥティスは大公の座に就き、ヨガイラはヴィリニュスへの帰途に捕えられた。ヨガイラの腹心ヴァイディラは処刑された。ヨガイラはケーストゥティス臣従を誓って解放され、相続財産としてクレヴァとヴィーツェプスクを与えられた。ケーストゥティスはドイツ騎士団との戦いを再開し、彼の軍勢はヴァルミアを襲い、ゲオルゲンブルク(現在のリトアニア領ユルバルカス)の占領を試みた。 1382年6月12日、ケーストゥティスが貢納を拒否したノヴホロド=シーヴェルスキーの支配者カリブタスと戦いに出かけ、ヴィータウタスがトラカイに向かい、両者がどちらもヴィリニュスを離れた際、商人ハーヌルに先導されたヨガイラの軍勢がヴィリニュスに入城した。商人たちはケーストゥティス大公の反ドイツ騎士団政策のためにリヴォニアとの貿易を中心とする経済活動を阻まれ、不満を募らせていたのだった。ヴィータウタスはトラカイで軍勢を結集してヴィリニュスを攻撃しようとしたが、ヨガイラはまんまと大公位を取り戻した。6月6日、ヨガイラはドイツ騎士団との間に2ヶ月間有効なブラジョウレ条約を結んだ。ヴィータウタスはドイツ騎士団とヨガイラの連合軍に太刀打ちできずにトラカイに退却し、トラカイの町は7月20日にヨガイラ軍に降伏した。ケーストゥティスがジェマイティヤで支持者をかき集めるあいだ、息子のヴィータウタスはフロドナで、弟のリュバルタスはハールィチ=ヴォルィーニでそれぞれ兵を募った。1382年8月3日、ケーストゥティス軍とヨガイラ軍はトラカイ近郊で決戦に臨むために対峙したが、戦いは開始されなかった。ドイツ騎士団の史料によれば、ケーストゥティスは、ヨガイラ軍がドイツ騎士団に援護されているのを見て配下のジェマイティヤ人の軍団が戦意を喪失したため、相手方が優位を悟って攻撃を仕掛けなかった。両軍は交渉を行うことで合意した。ケーストゥティスとヴィータウタスがヨガイラの野営に到着すると、親子は逮捕されてクレヴァ城の牢獄に閉じ込められた。ケーストゥティスの軍勢は散り散りになった。収監されて5日後の8月15日、ケーストゥティスが死んでいるのをスキルガイラが発見した。ヨガイラは叔父は首を吊って自殺したのだと主張したが、ヨガイラが窒息死させたという噂が広く囁かれた。ヨガイラはケーストゥティスのために盛大な異教式の葬儀を開いた。ケーストゥティスの遺骸は馬、武具、その他の貴重品とともに火葬された。
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