ケルンと他の研究者による研究: 古ジャワ語或いはサンスクリット?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 07:31 UTC 版)
「シンガポール・ストーン」の記事における「ケルンと他の研究者による研究: 古ジャワ語或いはサンスクリット?」の解説
砂岩の断片の最初の効果的な研究は、オランダの碑文研究者、ヨハン・ヘンドリク・カスパー・ケルン(英語版)に拠った。彼はsalāgalalasayanara、ya-āmānavana、kesarabharalaとyadalamaを含む少数の単語の解読に成功したが、それらが書かれた言語の特定は出来なかった。彼は碑文の推定時期を1230年頃として伝えた。もう一人のオランダのインド学者、N.J. Kromは、1848年に発表された石の拓本から、その活字がマジャパヒト王国のものに似ているが、1360年よりもある程度古い時代に遡ると判断した。 他の学者は異なる見解を取った。古代インドネシア文字の学者、Dr. J.G. de Casparisは、その文字の種類は10世紀か11世紀といったより古い時代に遡るかもしれないと事前に判断した。彼は古ジャワ語 (カウィ語)と見られる1語か2語を解読する事が出来た。その一方で、インドネシア国立考古学研究センターの碑文専門家にしてインドネシア大学の講師、Drs. Boechariの見解は、12世紀より前に遡るその文字は、ジャワ語の書き方よりもスマトラ語に近い類似性を持ち、その言語は古ジャワ語でなく、その時代のスマトラ島で一般的に使われていた、サンスクリットであるというものだ。John Miksicは、碑文のみに基づいてde Casparisの説かBoechariの説、何方がより正しいかを断定することは不可能だが、碑文を依頼した人物が文化的にジャワ人ではなくスマトラ人であったという結論を受け入れることは容易であり、何故かと言うと、10世紀までにジャワの言語的影響はスマトラ島南部のランプン州の地域に達したが、シンガポールのような遥か北方ではそうした影響は発見されておらず、当時のスマトラ島や沖合の島々にてジャワ人の植民地化の証拠はないからである、とコメントした。Miksicは、厚板に関する殆どの結論は拓本や写真に基づいており、この為、砂岩板の断片の詳細な分析が、碑文の年代、又はその内容の本質に関してより多くの情報を提供するという「僅かな可能性」があると指摘した。しかしながら、彼はその文字が完全に解読されることは、多分無いだろうとも発言した。
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