ケルンの女権擁護者にして革命的社会主義者(1847年‐1849年)
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「マティルデ・フランツィスカ・アネケ」の記事における「ケルンの女権擁護者にして革命的社会主義者(1847年‐1849年)」の解説
ミンデンにおける民主主義者の集会でマティルデは将来の夫となるフリッツ・アネケと出会った。フリッツはこの時ミュンスターに駐在する歩兵少尉で、1847年に決闘拒否によってプロイセン軍を不名誉除隊で追われていた。マティルデとアネケとのミュンスター時代からの共通の知人が、少壮の学生フリードリヒ・ハマハーで、彼は後にルール地方の経済的リーダーになった。またその妻とマティルデは後のアメリカ時代に至っても活発な文通を交わしている。1847年6月3日マティルデとフリッツは結婚しケルンに居を定めた。ケルンで彼女はすぐに共産主義的・芸術的団体の中心人物となり、そこから後にケルン労働者団体が設立された。1847年6月26日マティルデの父が死去した。マティルデは夫を通じて政治に関係するようになった。また、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスらと知り合い、他にもゲオルク・ヘルヴェーク、フェルディナント・ラサールなどの知遇を得た。またヘルヴェークを通じて黄金虫同盟のメンバーとも知り合っている。アネケ一家は後に政治的シオニズムの創始者となるモーゼス・ヘスとも親しい関係にあった。 1848年7月3日、フリッツ・アネケが捕らえられた時、マティルデはケルンで新ケルン新聞を創刊するところだった。(第一号は9月10日発行)新ケルン新聞はすぐに検閲の犠牲となったがマティルデ・フランツィスカは「婦人新聞」(9月27日第一号発行)と偽装した紙名で続けたがこれもまた第三号で発行停止となった。カール・マルクスが1849年ケルンから追放されて新ライン新聞が発行を禁止された時、マルクスはその最終号でマティルデ・フランツィスカが出版する刊行物を読者に推薦している。 さらに重要なこととして、マティルデ・フランツィスカは1848年7月21日に息子のフリッツを生んでいる。1848年12月23日には夫のフリッツがベルリンの賞賛を呼び起こした法廷で無罪を言い渡された。
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