クリミア自治共和国(1992年-)
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「クリミアの歴史」の記事における「クリミア自治共和国(1992年-)」の解説
「クリミア自治共和国」も参照 独立したウクライナはクリミアに自治共和国を復活させ、クリミア・タタール人の帰還が許可され、クリミアの全人口の約1割を占めるまでになった。帝政期以来の多数派であるロシア人の中にはクリミアがウクライナ領になったことに不満を持ち、ロシア連邦へ帰属することを求める者たちも出始めた。 1992年5月5日、クリミア議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国を宣言した。ウクライナ議会は5月15日に独立無効を決議したが、黒海艦隊の基地として戦略的に重要なクリミアへの関心を持つロシアは独立の動きを支持し、5月21日にクリミアのウクライナ移管を定めた1954年の決定は違法とする議会決議を行った。しかし、ロシアで独立を宣言していたチェチェン共和国に対し、1994年にロシアが武力鎮圧を開始すると、一方で自国からのチェチェンの独立を禁圧しながらウクライナからのクリミアの独立を支持するのは自己矛盾であるとの国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を取りやめた:415。 その結果、クリミア内での独立運動も後ろ盾を失って急速に沈静化し、またウクライナ側でもロシアに敵対的な民族主義政党の活動が和らいだため、クリミア議会もウクライナ共和国内の自治共和国であることを認めるようになった。クリミアの自治権は1996年に制定されたウクライナの現行憲法で再確認され、クリミア自治共和国の設置が規定されたが、同時にクリミア半島は「ウクライナの不可分な構成部分」とされ、自治共和国の離脱権は否定された。1998年にウクライナ憲法の枠内でクリミア自治共和国憲法(ロシア語版)が制定された。
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クリミア自治共和国
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「ウクライナの政治」の記事における「クリミア自治共和国」の解説
1992年、クリミアの多くの親ロシアの政治組織は、クリミアの分離とロシアへの併合を提唱した。ソ連時代、クリミアはペラヤースラウ条約の300周年を記念して、1954年にニキータ・フルシチョフ一等書記官によってロシアからウクライナに譲渡された。 1992年7月、クリミアとウクライナの議会は、クリミアが重要な文化的および経済的自治を維持しながら、クリミアの管轄下にとどまると決定し、クリミア自治共和国を創設した。 クリミア半島は、ウクライナの主権下にありながら、ウクライナ軍とロシア軍の両方の主要な軍事基地の場所として機能し、ロシア人が多く住んでいた。 2014年初頭、ウクライナの親ロシア大統領であるヴィクトル・ヤヌコーヴィチは、ロシアではなく欧州連合とウクライナを同盟させることを拒否したことを理由に、ウクライナ人に追放された。これを受けて、ロシアは2014年2月にクリミアに侵攻し、占領した。 2014年3月、物議を醸す国民投票がクリミアで開催され、投票者の97%がロシアに参加した。 2014年3月18日、ロシアと新しい自称クリミア共和国は、ロシア連邦におけるクリミア共和国とセヴァストポリの加盟条約に署名した。これに応じて、国連総会は、国民投票が無効であると宣言し、クリミアに対するウクライナの主張を公式に支持する拘束力のない決議68/262を可決した。ロシアは半島を2つの連邦の主題として管理しているが、ウクライナと大多数の国はロシアの併合を認識していない。
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