クライスラー作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/29 04:34 UTC 版)
「ホロハン殺人事件」の記事における「クライスラー作戦」の解説
クライスラー作戦は、ハロルド・アレグザンダー将軍指揮下の第15軍集団(英語版)によって管轄されていた。 1944年9月27日、クライスラー工作班がアルメーノのコイロモンテ村(Coiromonte)近くに落下傘で降下した。工作班の内訳は、指揮官ウィリアム・V・ホロハン少佐、副官ヴィクター・ジャンニーノ中尉(Victor Giannino)、情報将校アルド・イカルディ少尉(Aldo Icardi)、無線士カール・G・ロドルス(Carl G. LoDolce)、火器担当アーサー・P・シアラミコリ軍曹(Arthur P. Ciaramicoli)の米軍人5名、そして抵抗運動から派遣された3人のイタリア人エージェントであった。 40歳のホロハンの本職は証券取引委員会付の法律家で、戦前は陸軍騎兵科の予備役将校を務めていた。彼はOSSが現地勢力からの影響を最小限に抑えるべく非イタリア系の指揮官を求めていた際に自ら志願した。22歳のイカルディ少尉は工作班の中で唯一現地方言を話すことができた。また、ジャンニーノ中尉はイタリア語を、ロドルスはシチリア語を話すことができた。現地抵抗運動に軍資金として提供するために、米ドル、ルイドール金貨(英語版)、スイス・フラン、イタリア・リラあわせて16,000米ドル相当がホロハンに託されていた。逮捕後にスパイとして処刑されることを避けるべく、ホロハンはOSSの規定に従って部下全員に軍服を着用するよう命じていた。 連合国軍の前線から600マイル(1000km)ほど離れた北イタリアの状況は非常に入り組んでいた。主要抵抗運動だけでも4派閥、すなわち社会党、行動党(英語版)、キリスト教民主党、共産党が存在し、さらに多くの帰属の曖昧な指揮官らに率いられた小集団も活動していた。本来、クライスラー作戦は枢軸軍の早期降伏を見越して、この地域との連絡を確立すると共に各勢力への牽制を行うことを目的としていた。しかし前提が崩れたため、目的は装備と物資を活用して現地抵抗運動を援護することに変更された。 ドイツ軍による執拗な追跡を受け、クライスラー工作班はパルチザン狩りが実施される度に危機にさらされていた。ある時点でドイツ軍はOSSの無線送信機を追って100ヤードほどの距離まで接近したが、パルチザンに所属するドイツ人工作員3人とスイス人工作員1人が逆探知を行って撃退した。12月、ある独立派閥の指揮官チンクアンタ(Cinquanta)がクライスラー工作班を裏切り、ドイツ軍への通報を行った。チンクアンタは後に暗殺された。
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