ギリシャ第1軍の撤退と降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
「ギリシャの戦い」の記事における「ギリシャ第1軍の撤退と降伏」の解説
ドイツ軍はギリシャ本土に深く侵入していたが、アルバニアに位置していたギリシャ第1軍は撤退を行っていなかった。このことをウィルソンは「たった1ヤードの土地さえもイタリア軍に与えたく無いがための愚考」と皮肉ったが、結局、4月13日までギリシャ第1軍は撤退の気配を見せなかった。連合軍がテルモピュライへの撤退したために、ギリシャ軍が撤退に使用するピンダス山脈を横切るルートはドイツ軍に遮断される恐れがあった。その頃、ドイツSS連隊LSSAHはメツォボ(Metsovon)の峠を西へイオアニアへ進撃してギリシャ第1軍をアルバニアから切り離す任務を与えられた。4月14日、カストリア(Kastoria)の峠で激しい戦いが行われ、ドイツ軍はギリシャ軍の撤退を阻止した。イタリア軍がギリシャ第1軍への追撃をためらっている間、ギリシャ軍は全面的な撤退を行い始めた。 パパゴスはメツォボへ急行した。4月18日、ドイツSS連隊LSSAHはギリシャ軍部隊と激戦を交わしグレヴェナ(Grevena)へ進撃した。ギリシャ軍部隊は自動車化されたドイツ軍に包囲され、圧倒された。そのため、ドイツ軍はさらに進撃し、4月19日ギリシャ第1軍の最終補給地点イオアニアを攻略した。このことを連合国の新聞は現代ギリシャの悲劇と表現した。元従軍記者で歴史家のクリストファー・バックリーはギリシャ軍の運命について、それは現実のアリストテレスのカタルシスであり、全ての人々の努力と勇気の無益さを恐るべき感覚で経験させた、と述べている。 4月20日、アルバニアのギリシャ軍(司令官ゲオルギオス・ツォラコグル、14個師団所属)は状況が絶望的であることを理解し、ドイツ軍に降伏を申し出た。歴史家ジョン・キーガンは「ツォラコグルがイタリア軍に降伏したくがないために、許可されていない単独での降伏の交渉を、ドイツSS連隊LSSAH司令官、ヨーゼフ・ディートリヒと行った」と書いている。ヒトラーの厳命により、イタリア軍にこのことは伏されたが、ヒトラーは降伏を了承した。しかし、このことを知ったイタリア統領ムッソリーニは激怒、退却しているギリシャ軍への反撃を命令した。4月23日に休戦が決定されるまで、ヒトラーとムッソリーニは話し合った。ギリシャ軍将兵は捕虜として扱われず、将校は軍服の着用、武器の保持をゆるされ、兵士は動員解除後、帰宅も許された。
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