キールの反乱とレーテ蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 14:18 UTC 版)
「ドイツ革命」の記事における「キールの反乱とレーテ蜂起」の解説
1918年10月末、休戦交渉に反対するドイツ海軍は、イギリス艦隊に決戦を挑もうとヴィルヘルムスハーフェン港の大洋艦隊主力の出撃を命じた。しかし、10月29日、命令の有効性に疑惑を持った水兵達約1000人が出撃命令を拒絶し、命令不服従によって反抗した。この出撃は自殺的な無謀な作戦であったとされるが、実態には論評の余地があるとされる。海軍司令部は作戦中止をもたらしたサボタージュの兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。 11月1日、キール軍港に駐屯していた第三戦隊の水兵たちが仲間の釈放を求めたが、司令部は拒絶した。11月3日には水兵・兵士、さらに労働者によるデモが行われた。これを鎮圧しようと官憲が発砲したことで一挙に蜂起へと拡大し、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会、ソビエトのドイツ語訳)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧し、艦に赤旗を掲げた(キールの反乱(英語版))。政府は社会民主党員グスタフ・ノスケを派遣し、蜂起したレーテ水兵らの待遇改善などの要求と交渉して、またノスケを「総督」としたことで、平常化した。蜂起の背景として、ドイツ海軍の将校が貴族・教養市民層出身者で占められているのに対して一般兵員は労働者で占められていたため、社会階層間の政治的対立が反映しやすかったことが指摘されている。 キールの乱は鎮静化したが、こうしてドイツ革命が開始された。この後キールから散った水兵や労働者によって同様の蜂起はたちまち広まり、5日にはリューベック、ブルンスビュッテルコーク(英語版)、6日にはハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、7日にはハノーファー、オルデンブルク、ケルン、8日には西部ドイツすべての都市がレーテの支配下となり、各地で将校が逮捕されて武装解除され、各地の軍当局は兵士評議会・労働者評議会の主権を無抵抗で承認した。 11月7日から始まったバイエルン革命(ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、王制は打倒され、レーテが権力を掌握した。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、11月8日までにドイツ北部へ、11月10日までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時のソビエト(評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、ボリシェビキのような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。
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