キューバとソ連の接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:11 UTC 版)
「キューバ危機」の記事における「キューバとソ連の接近」の解説
このような「予想外」の冷遇に反発したカストロ首相は、アメリカとの友好関係の継続と支援を受けることにまだ期待を持ちながらも、帰国後に農地の接収を含む農地改革法の施行を発表した。 当時アメリカ企業であるユナイテッド・フルーツとその関連会社、関係者がキューバの農地の7割以上を所有していたことから、これは事実上アメリカ企業の資産の接収を目的にした法の施行ということになり、アメリカ政府や企業からの大きな反発を受けることとなった。 アメリカとの関係が悪化する中、カストロは全方位外交を掲げることで、第三世界のみならず西側の先進国を含めた世界各国から革命政権の承認を受けることを目論み、革命の同志で国立銀行総裁に就任したエルネスト・チェ・ゲバラを日本やインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコをはじめとするアジアやアフリカ、東ヨーロッパ諸国に派遣した。 さらにカストロは、弟のラウル・カストロ国防大臣にソビエト連邦の首都のモスクワを訪問させ、ニキータ・フルシチョフ首相から歓迎を受け、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに公式訪問として正式に招請するなど、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始する。 その後もキューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1960年1月にはユナイテッド・フルーツの農地の接収を実施したほか、2月にはソ連のアナスタス・ミコヤン第一副首相のハバナ公式訪問を受け入れ、ソ連との砂糖と石油の事実上のバーター取引や有利な条件での借款の受け入れ、さらにソ連からの重火器類を含む武器調達の取引に調印した。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家による軍事的脅威を間近で感じることになった。
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