キプチャク草原・ロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/28 21:07 UTC 版)
「チンギス統原理」の記事における「キプチャク草原・ロシア」の解説
キプチャク草原のジョチ・ウルスは、始祖ジョチの数多くの息子たちの子孫が広大な草原に散らばったため、14世紀中頃にバトゥ家などいくつかの有力な家系が断絶した後も、シバン家、トカ・テムル家など別の家系がハーン位を称して君臨し、チンギス統原理が保たれた。14世紀後半から15世紀前半にはママイ、エディゲらチンギス・カンの血を引かない有力者もあらわれるが、彼らはいずれもハーン位を称することなく終わっている。 その後、ジョチ・ウルスの東部では、カザフが広範に拡散して遊牧生活を続けるが、彼らの間ではソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までハーン、スルタンなどの一門にしか許されない固有の称号を帯びたチンギス・カンの末裔たちが諸部族の領主階層として君臨していた。また、ウズベクでも18世紀頃まで、チンギス・カンの男系子孫がハーンを称する王朝が続いている。19世紀にはチンギス・カンの血を引かない王家がハーンを称するようになるが、ブハラではハーンの称号を捨ててよりイスラム的なアミールの称号が採用されており、ここでは君主の正統性を示す原理としてようやくイスラム教の権威がチンギス統原理よりも重要とされたことがわかる。 一方、早くにロシアに征服されたジョチ・ウルスの西部でも長らくチンギス・カン一族の権威が生き続け、チンギス・カンの血を引くモンゴル貴族が正教に改宗してロシア貴族に加わった場合には、ロシア在来の王家であるリューリク家の人々と同様に、皇子(ツァーレヴィチ)、公(クニャージ)として処遇された。16世紀にはイヴァン4世がジョチ家の末裔サイン・ブラトに一時的に譲位した事件が起こっているが、幾人かのモンゴル帝国史研究者は、イヴァンがモスクワ大公国の君主が有するツァーリの位に、チンギス統原理に基づくハーンの権威を身につけようと試みたものと解釈している。 また、西部でもクリミア・ハン国のみはオスマン帝国の保護下に入り、18世紀の末までロシアからの独立を保ったが、この国でもチンギス・カンの血を引く王族のギレイ家の構成員のみがハーンに即位したり、スルタンの称号を帯びたりする権利を独占した。ギレイ家は、チンギス・カンの血を引く名門としてオスマン帝国、ロシア帝国の双方からも一定の敬意を払われていたことが知られている。
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