キプチャクの起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
10世紀の地理書『東から西への世界の境界』(Hudūd al-'Alām)などによると、キプチャク(Qipcaq)族はキマク(Kīmāk)なる種族から分離した部族であり、その首長はキマク全体を代表していたという。また、ロシアのワシーリィ・バルトリドはドイツのヨーゼフ・マルクァルト (Josef Marquart) の説に従って、「10世紀頃イルティシュ河畔にあったというキマクなる部族の名は、イキ・エメク(Iki-Ämäk)すなわち“二つのエメク”の意で、それはエメク族とキプチャク族とを指したものであり、そのうち後者の方が強力で、11世紀ごろから発展し始め、南方にあったオグズ族を追い払って、当時“オグズ草原”と呼ばれていた黒海からウラル山脈に至る広大な草原地帯を文字通り、“キプチャク草原”に変えた」という。だが当時はこの種族には何らの政治的統一もなければ、国家組織はもとよりなく、各氏族・部族ごとにその広大な草原地帯に分散・遊牧していたらしく、ドーソンの伝えるエジプトの史家ヌワイリー(Novairi)の著述によると、当時のキプチャク種族は十一の部族ないし氏族(下記参照)に分かれていたという。そのうち、地域によってはイスラム化されたもの、異教徒として止まったもの、さまざまであったらしいが、11世紀中葉には、ホラズム・シャー朝と交渉を持ち、スィグナク(Sugnaq)を支配した王者も現れたと伝えられる。
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