キブロン湾の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:14 UTC 版)
「エドワード・ホーク」の記事における「キブロン湾の戦い」の解説
詳細は「キブロン湾の海戦」を参照 フランスはイギリス本土への侵攻を開始した。ブレスト封鎖中であったが、ホークは一旦イギリス南部のトーベイに去り、この機を狙っていたブレスト艦隊指揮官のコンフランが11月4日に艦隊を出動させた。このフランス艦隊を、イギリス艦隊次席指揮官ロバート・ダフ(英語版)が追跡し、ホークは艦隊をキブロン湾に向けた。荒天の中、追跡が行われ、フランスの砲撃を皮切りに、両艦隊の間で激しい戦闘が繰り広げられた。結局この戦いでイギリスは戦列艦2隻を失ったが、死傷者は300人程度だった。その逆にフランスは、数多くの死傷者を出し、また艦隊の損害も大きかった。何よりも、この敗北により、フランスは士気をくじかれてしまった。ホークは後に年額2000ポンドの恩給を支給されている。一方、やはりイギリス海軍の指揮官であるエドワード・ボスコーエンもラゴスの戦いでフランス海軍に完勝し、この2つの戦いで、英仏の七年戦争とフレンチ・インディアン戦争は実質終わりを告げた。 フランスの艦隊をうまくドーバー海峡から撃退して、戦争終結までの戦闘も無くなったものの、ホークはもっと全面的な勝利が確約されなかったことに失望していた。彼は、日没があと2時間遅かったら、すべての艦隊を撃破することができたと断言した。
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