オーストロ・ファシズムとの連帯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「オーストロ・ファシズムとの連帯」の解説
詳細は「エンゲルベルト・ドルフース」および「護国団」を参照 1932年5月20日、イタリア王国にとってかつての宿敵であるオーストリア・ハンガリー帝国の後裔国家オーストリアで、キリスト教社会党の党首エンゲルベルト・ドルフースが首相に就任した。ムッソリーニはイタリア民族主義に立つ人間としてオーストリアに伝統的な反感はあったが、ムッソリーニの政権獲得から11年後にドイツの政権を獲得したナチ党党首ヒトラーは、故郷オーストリア併合を悲願としており、このドイツの動きを牽制するために協力関係を結び、ドルフースもファシスト政権の制度を参考にした祖国戦線党を中心とするオーストロ・ファシズム体制を形成した。ドルフースとの間には個人的友情も芽生え、家族ぐるみで交流する間柄になっていた。またオーストリアの独立派が掲げていたハプスブルク家の復位にも賛同し、婚姻によるサヴォイア家とハプスブルク家の合同も検討していたとされる。 1934年7月25日、ナチ党の影響下にあるオーストリア・ナチスの党員がオーストリア軍兵士に偽装して首相官邸に突入、ドルフースを暗殺する事件を起こした。これはドルフース家がムッソリーニ家のリッチョーネにある別荘を尋ねる予定となっていた中の出来事であった。ムッソリーニは先にイタリアへ入国していたドルフース夫人に事件を伝えると、陸軍に4個師団を即座にオーストリア国境へ展開する命令を出した。同時にイタリアはイギリス・フランスと共にドイツへの非難声明をだし、一挙に併合を目論んでいたヒトラーは事件への関与を否定して計画を撤回せざるを得なくなった。ムッソリーニのヒトラーに対する印象は最悪なものとなり、彼が自身に尊敬の念を寄せるヒトラーを蔑んだという話は専らこの時期を指している。
※この「オーストロ・ファシズムとの連帯」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「オーストロ・ファシズムとの連帯」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- オーストロファシズムとの連帯のページへのリンク