オーストリア公妃(1358年 - 1365年)
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「カタリーナ・フォン・ベーメン」の記事における「オーストリア公妃(1358年 - 1365年)」の解説
夫ルドルフ4世は1358年にオーストリア公となった。ルドルフは早速、地位を「大公」に格上げすることで一族の家格と名声を高めることを率先して行った。ルドルフは『大特許状』(19世紀に偽書であることが確認された)を用いて、1358/9年に選帝侯と同等の地位を獲得しようとした。ルドルフ4世は『大特許状』の写しを舅カール4世に示したが、カール4世は徹底的な調査の上でこの承認を拒否した。その後すぐに、ルドルフとカールの間で軍事衝突が起こる脅威はカタリーナの賢明な仲裁により回避させることができた。皇帝カール4世はこの『大特許状』をイタリア人の人文主義者ペトラルカに渡し、入念な調査の後、皇帝に対するさまざまな主張は論証できないことを確認した。このためルドルフは1361年に大公位を名乗ることを正式にあきらめた。後にこの偽書がフリードリヒ3世により王室および帝室の承認を受けたのは、1441年および1453年のことであった。 ルドルフはヴィッテルスバッハ家のチロル伯マインハルト3世の死後の1363年1月に、チロル伯領を手に入れようとした。このため、カール4世とルドルフの間で新たな緊張が発生した。カール4世は、ヴィッテルスバッハ家に関する政治的計画が台無しになることを恐れていた。しかしこの危機においても、カタリーナは父親と夫の仲裁を成功させることができた。 1363年3月18日に皇帝カール4世はブランデンブルク・ヴィッテルスバッハ家との相続契約書に署名し、1364年2月10日にはブルノにおいてルドルフ4世にチロルを与えた。ルドルフが死去した後の1369年になってようやくヴィッテルスバッハ家のシュテファン2世がチロルの領有を認められることになる。また、ブルノにおいてはルクセンブルク家、ハプスブルク家およびハンガリー・アンジュー家との相互相続契約もまとめられ、後のハプスブルク帝国への発展がすでにうかがえる。この1364年の相続契約に基づいて、1437年に最終的にオーストリア公アルブレヒト5世が最後のルクセンブルク家の皇帝でカタリーナの異母弟であったジギスムントの相続を認められることになる。 ルドルフ4世は1365年7月27日に死去し、カタリーナはしばらく後にプラハの父のもとに戻った。
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