オーストリア公国とオーストリア大公国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > オーストリア公国とオーストリア大公国の意味・解説 

オーストリア公国とオーストリア大公国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:22 UTC 版)

オーストリアの歴史」の記事における「オーストリア公国とオーストリア大公国」の解説

東フランク王国では、ハインリヒ5世死によってザーリアー朝断絶しかわってコンラート3世ホーエンシュタウフェン朝創始したコンラート3世は、対立していたヴェルフ家ハインリヒ傲岸公からバイエルン奪い、これを自分異父弟に当たる辺境伯レオポルト4世与えた。しかし、その後シュタウフェン家がヴェルフ家と関係改善はかったことから、皇帝ヴェルフ家バイエルン支配認めることになった。こうして、この地域をめぐりオーストリア辺境伯ヴェルフ家対立生じることになった1156年レーゲンスブルク議会で「Privilegium Minus」と称される調停案がまとめられた。これにより、レオポルト4世の兄で辺境伯ハインリヒ2世バイエルン放棄するが、一方でオーストリアエスタライヒ)を大公領として、公位継承裁判権などに対する諸特権認められることになった次代レオポルト5世レオポルト6世もオーストリア公国発展努め統治下のウィーンなどが発展していった。 1249年バーベンベルク家断絶するオーストリアドイツ諸侯争奪の場となったが、マルヒフェルトの戦いボヘミア王オタカル2世勝利したハプスブルク家ルドルフ1世領有し以後ハプスブルク家の支配が続く。ハプスブルク家本拠にしてからのウィーン政治経済学芸中心として繁栄していくことになる。ルドルフ4世1359年に「オーストリア大公」を称して以降は、オーストリア大公国となった

※この「オーストリア公国とオーストリア大公国」の解説は、「オーストリアの歴史」の解説の一部です。
「オーストリア公国とオーストリア大公国」を含む「オーストリアの歴史」の記事については、「オーストリアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「オーストリア公国とオーストリア大公国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「オーストリア公国とオーストリア大公国」の関連用語

オーストリア公国とオーストリア大公国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



オーストリア公国とオーストリア大公国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオーストリアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS