オーストリア公国とオーストリア大公国
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「オーストリアの歴史」の記事における「オーストリア公国とオーストリア大公国」の解説
東フランク王国では、ハインリヒ5世の死によってザーリアー朝が断絶し、かわってコンラート3世がホーエンシュタウフェン朝を創始した。コンラート3世は、対立していたヴェルフ家のハインリヒ傲岸公からバイエルンを奪い、これを自分の異父弟に当たる辺境伯レオポルト4世に与えた。しかし、その後シュタウフェン家がヴェルフ家と関係改善をはかったことから、皇帝はヴェルフ家にバイエルン支配を認めることになった。こうして、この地域をめぐりオーストリア辺境伯とヴェルフ家の対立が生じることになった。 1156年、レーゲンスブルクの議会で「Privilegium Minus」と称される調停案がまとめられた。これにより、レオポルト4世の兄で辺境伯ハインリヒ2世はバイエルンを放棄するが、一方でオーストリア(エスタライヒ)を大公領として、公位継承や裁判権などに対する諸特権が認められることになった。次代のレオポルト5世、レオポルト6世もオーストリア公国の発展に努め、統治下のウィーンなどが発展していった。 1249年にバーベンベルク家が断絶するとオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したハプスブルク家のルドルフ1世が領有し、以後ハプスブルク家の支配が続く。ハプスブルク家が本拠にしてからのウィーンは政治、経済、学芸の中心として繁栄していくことになる。ルドルフ4世が1359年に「オーストリア大公」を称して以降は、オーストリア大公国となった。
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