オーストリア公として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:21 UTC 版)
「フリードリヒ4世 (オーストリア公)」の記事における「オーストリア公として」の解説
治世初期のフリードリヒ4世は内憂外患に悩まされ続けた。1406/07年にはチロルで勃発した貴族反乱やトリエント司教領での反乱をなんとか鎮圧したが、財政が逼迫し、フリードリヒ4世に「無一文公」の通称がつく由縁となった。また1401年にシュヴァーベンのアッペンツェル市とザンクト・ガレン修道院の間に起きたアッペンツェル戦争では修道院に加担して介入したが失敗し、1411年にアッペンツェル市は原初同盟の傘下に入った。一方チロルにはバイエルン公シュテファン3世が侵入してきたが、これはウンターエンガディンの戦いで撃退に成功した。 1411年に次兄レオポルト4世が死去すると、レオポルト3世の息子で残った三男エルンストと四男フリードリヒ4世はまたもレオポルト系ハプスブルク家の所領を分割した。フリードリヒ4世は旧領フォーダーエスターライヒに加え、単独のアルザスの領主、ブルクアウ辺境伯となった。1417年にはハプスブルク家の分家ハプスブルク・ラウフェンブルク家が断絶したことで、キーブルクを継承した。一方、南方のヴェネツィア共和国とは度々国境紛争を起こした末、ロヴェレートとラガリーナ谷を奪われた。 教会大分裂においては対立教皇ヨハネス23世を推し、1415年3月にコンスタンツ公会議で彼を擁護した。公会議を取り仕切ったローマ王ジギスムントはヨハネス23世を逮捕し廃位すると、フリードリヒ4世を帝国アハト刑に処した。フリードリヒ4世は民衆の支持を受けてチロルは保ったものの、西アールガウ、フライアムト、バーデン伯領を手放し、ハプスブルク家の故地を失うことになった。
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