エカテリーナ2世のクーデター
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「エカテリーナ・ダーシュコワ」の記事における「エカテリーナ2世のクーデター」の解説
ダーシュコフ公爵は、オラニエンバウム(現・ロモノーソフ)にあった皇太子夫妻の別荘の警護を担当する近衛士官であった。その関係から、ダーシュコワ夫人は当時皇太子妃であったエカテリーナ2世の知遇を得、親しく政治論、社会論、芸術論を闘わせる無くてはならない間柄になる。一方でダーシュコワ夫人の実家ヴォロンツォフ伯爵家は、宰相ベストゥージェフ=リューミン伯爵の失脚、エリザヴェータ女帝の崩御と、ピョートル3世の即位に前後して、叔父ミハイル・ヴォロンツォフが宰相に就任、ダーシュコワの姉でピョートル3世の情人であったエリザヴェータ・ヴォロンツォヴァは女官長となり、皇后エカテリーナとその一派を凌駕する勢いであった。一門あげてピョートル3世支持派となったヴォロンツォフ家の中にあって、ダーシュコフはただ一人、皇后エカテリーナに忠誠を誓う。 ダーシュコワは同志を募り、青年将校の中心であったオルロフ兄弟を取り込むことに成功した。1762年6月27日、同志であったパセク大尉が逮捕されたことをきっかけとして、皇后派はグリゴリー・オルロフを中心にクーデター(ロシア語版)を敢行。6月28日、エカテリーナ2世即位を宣言する。女帝の登極に大きな役割を果たしたダーシュコワ夫人は、女帝から2000ルーブルの年金と農民600名を下賜される。ピョートル3世に忌避され、在外勤務をしていた夫ダーシュコフ公爵も帰国を許され、准将に昇進、侍従に任命された。当時、ダーシュコワはシュヴァロフ伯爵をして、「19歳の女性が我が国の政府を変えた」と絶賛させるに至った。
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