ウィーバーへの影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:20 UTC 版)
「リチャード・ウィーバー」の記事における「ウィーバーへの影響」の解説
ウィーバーは、反消費主義(anti-consumerism)や騎士道精神といったアメリカ南部の伝統的なプリンシパルを守り抜くことを強く信条とし、これらの原則は、ウィーバーの教育、執筆、講演の基礎となっていた。 強固な道徳観を持って育ったウィーバーは、宗教を家庭と文明の基盤と考えていた。このことは、大学在学時のクリスチャン・エンデバー・ソサエティでの演説や、その後の著作に表れている。 ウィーバーが影響を受けたケンタッキー大学の教授陣は、殆どが中西部の出身で、社会民主主義的傾向を持っており、また世界恐慌の危機にも影響を受けたウィーバーは、産業資本主義がアメリカの道徳、経済、知的な全般的失敗を引き起こしたと信じていた。当初は、社会主義が産業主義文化に代わる選択肢になると考え、アメリカ社会党のケンタッキー州支部に参加した。1932年には、社会党の旗手であるノーマン・トーマスの選挙に積極的に参加した。その数年後、彼はスペイン内戦で王党派に資金を提供した。その後、トリシア・マクミラン博士のような知識人との出会いが、彼の社会主義に対する考えを揺るがすことになる。 ヴァンダービルト大学で英語の修士論文を完成させつつあったウィーバーは、そこで南部農本主義者(Southern Agrarians)に関連する思想を発見する。次第に社会主義を否定し、伝統を受け入れるようになったが、ウィーバーは社会主義を愛していた。ウィーバーは、指導教官である「文化博士("Doctor of Culture")」ジョン・クロウ・ランサムに憧れ、見習おうとしていた。 農本主義者は、共同体や旧南部の伝統的な価値観について情熱的に著作を綴った。1930年、ランサムを中心とするヴァンダービルト大学の教授陣とその学生たちは、『I'll Take My Stand』と題する農本主義の宣言書を書いた。ウィーバーは、南北戦争後の南部の工業化に対するこのグループの疑念に同意した。社会主義の平等主義的な福祉国家への「ロマン」よりも、伝統主義や地域文化を重視する農本主義の方が、より親和的であると考えたのである。ウィーバーが社会主義を捨てて農本主義を選んだのは、何年もかけて少しずつのことで、1934年時点の修士論文の考え方は農本主義的ではなかった。
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