イギリス・デンマーク時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 18:18 UTC 版)
「オットー・ロベルト・フリッシュ」の記事における「イギリス・デンマーク時代」の解説
1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツ国首相に就任すると、フリッシュはシュテルンの紹介で、イギリス・ロンドン大学のバークベック・カレッジの一員となった。そして1年間、パトリック・ブラケットのもとで、霧箱の性能の改善や人工放射線の研究を行った。ただし、この時フリッシュが改良した霧箱は、実際の実験で使用されることはなかった。その後は5年間にわたり、ニールス・ボーアのいるデンマークのコペンハーゲンで研究した。ここでフリッシュの研究内容は原子核物理、その中でも中性子の研究に特化していった。 1938年のクリスマス休暇中、スウェーデンのクングエルブ (Kungälv) にあるマイトナーの元を訪れた。訪問中、マイトナーは、ベルリンからのオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンからの手紙を受け取った。そこには、ウランの原子核に中性子を衝突させると、副産物としてバリウムが発見されたと書かれていた。ハーンらはこの結果を説明することはできなかった。フリッシュとマイトナーは、仮にウランの原子核が2つに分かれることがあるのならば、この現象が説明でき、その時にエネルギーが生み出されることを示した(核分裂の発見)。このすぐ後に、スタニスワフ・ウラムは、核分裂は連鎖反応を引き起こし得ることを証明した。 1939年夏、フリッシュはバーミンガムへの小旅行のため、デンマークを離れた。しかし第二次世界大戦の勃発により帰ることができなくなった。そのためイギリスで、物理学者のルドルフ・パイエルスと共に核分裂に関する研究を行った。その結果、ウランによる原子爆弾の製造が可能であることが明らかになった。2人はその結果をフリッシュ=パイエルスの覚書 (Frisch-Peierls memorandum) としてまとめた。この覚書は原爆の爆発から、その後の放射性降下物までを予測していた。 この覚書はイギリスにおける原子爆弾製造計画(チューブ・アロイズ)の基礎となり、さらにマンハッタン計画においても同様の役割を果たした。フリッシュはアメリカのロスアラモス国立研究所で研究を行うこととなり、アメリカへ行くためにはイギリス市民である必要があったため急遽市民となったうえで、1943年にアメリカへと移動した。
※この「イギリス・デンマーク時代」の解説は、「オットー・ロベルト・フリッシュ」の解説の一部です。
「イギリス・デンマーク時代」を含む「オットー・ロベルト・フリッシュ」の記事については、「オットー・ロベルト・フリッシュ」の概要を参照ください。
- イギリス・デンマーク時代のページへのリンク