イギリス・ドイツ軍合流とは? わかりやすく解説

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イギリス・ドイツ軍合流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 06:26 UTC 版)

アウデナールデの戦い」の記事における「イギリス・ドイツ軍合流」の解説

1708年オイゲン前年11月28日ウィーン戻っていたが、3月26日ウィーン去ってハノーファー立ち寄りライン川方面司令官ゲオルク・ルートヴィヒにモーゼル川方面軍の編成許可求めたが、ライン川から兵力割かれることを恐れたゲオルク・ルートヴィヒに反対され、ハーグ到着してマールバラ公対面した2人4月末にハノーファー訪問、ゲオルク・ルートヴィヒを再度説得して同意取り付けライン川モーゼル川合流地点であるコブレンツで軍を集合させる案でまとまりオイゲン資金調達のためウィーンへ、マールバラ公フランス軍備えてハーグ戻ったフランスにも動きがあり、ライン川ヴィラールバイエルン選帝侯マクシミリアン2世仲違いしたためフランス南部ドーフィネ左遷ベリックが代わってマクシミリアン2世補佐役としてライン川方面担当したネーデルラント戦線ではフランス王ルイ14世の孫のブルゴーニュ公ルイ指揮執りヴァンドームブルゴーニュ公補佐役となった。 5月26日フランス軍モンスからブリュッセル目指し北進マールバラ公ブリュッセル南西ハレ進軍する6月2日に東のジュナップに移動してルーヴェン伺いマールバラ公ルーヴェン付近に後退し戦線停滞した一方オイゲン5日ウィーン離れコブレンツへ兵を募ったが、思うように集まらず6月下旬までずれこみ、兵も1万5000しか集まらなかった。その上ネーデルラント北上した場合ライン川フランス軍追撃してくる危険性考えなければならなかった。オイゲンはゲオルク・ルートヴィヒに断り入れた上で29日コブレンツ出発ベリックも後を追った7月4日夜にネーデルラントフランス軍はジュナップから西上してヘント向かい、西のコミーヌに待機していた別働隊ヘントから西のブルッヘ攻めたマールバラ公追跡したフランス軍捕捉できず、ヘントブルッヘ陥落したヘントスヘルデ川レイエ川合流地点であり、西にオステンドまで繋がる運河築かれブルッヘ運河中継点に位置していた。フランス軍両方押さえられたことはレイエ川流域から運河に至る地域平定されたことを意味していた。 マールバラ公はあまりの事態気を落としたが、6日騎兵先遣隊連れたオイゲン到着立ち直りブリュッセル西方今後の戦略話し合いモーゼル河畔オイゲン本隊待たずヘント付近フランス軍撃破することを確認した。ぐずぐずしていると未だ同盟側にあるスヘルデ川流域の他の都市フランス軍落とされネーデルラント西部フランス制圧され事態になり、北上してくるベリックの軍が合流する可能性あったからである。

※この「イギリス・ドイツ軍合流」の解説は、「アウデナールデの戦い」の解説の一部です。
「イギリス・ドイツ軍合流」を含む「アウデナールデの戦い」の記事については、「アウデナールデの戦い」の概要を参照ください。

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