イギリスでの治世前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:46 UTC 版)
「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事における「イギリスでの治世前期」の解説
1727年6月22日(グレゴリオ暦)、ジョージ1世がハノーファーへの帰国中に死去、ジョージは43歳で、ジョージ2世としてグレートブリテン王を、ゲオルク2世アウグストとしてハノーファー選帝侯を継承した。ジョージ2世は父の葬式のためにドイツへ行くことはしないと決めたが、批判を受けることはなく、逆にイングランドへの好意としてイングランドで称賛された。ジョージ1世は遺言状でジョージ2世の孫の代での相続は単独相続でなくイギリスとハノーファーとで分割することを定めたが、ジョージ2世は遺言状を握りつぶした。イギリスとハノーファーの官僚はジョージ1世の一存で相続法を決めることはできないので、遺言状は違法であるとした。一部の批評では、ジョージ2世が父の遺産を分割したくなかったために遺言状を隠したと考えられた。 ジョージ2世は1727年10月22日(グレゴリオ暦)にウェストミンスター寺院で戴冠した。作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは招聘されて司祭ザドク(英語版)などジョージ2世の戴冠式アンセムの4曲を作曲した。 ウォルポールはジョージ1世の政府に入ったためジョージ2世に嫌われ、その即位に伴い更迭されてサー・スペンサー・コンプトンに交代するものと思われていた。実際、ジョージ2世は初めての勅語の起草をウォルポールではなくコンプトンに求めたが、コンプトンはウォルポールに書かせた。ウォルポールが王室費(国王の公的な支出として議会に認められた、年ごとの固定金額)80万ポンドを確保したことでキャロラインに取り入ることに成功、キャロラインはジョージ2世にウォルポールを留任させるよう勧めた。ウォルポールが議会で安定多数を確保したこともあり、ジョージ2世はウォルポールの留任か政情不安を選ぶしかなかった。コンプトンは翌年ウィルミントン男爵(英語版)に叙された。 ウォルポールは内政を司り、義弟のタウンゼンド子爵が1730年に辞任すると外交政策も支配した。歴史家の間ではジョージ2世が象徴的な役割しか果たさず、ウォルポールなどの上級官僚の政策や勧めに概ね従ったことが通論である。ジョージ2世はヨーロッパにおける戦争に前向きだったが、内閣はより慎重だった。英西戦争は終結し、ジョージ2世はウォルポールに圧力をかけてポーランド継承戦争にドイツ側で参戦させようとしたが失敗した。1733年4月、ウォルポールの物品税法は与党を含め反対多数だったため彼は引っ込めざるをえなかった。ジョージ2世はウォルポールを援護して法案に反対した議員を宮廷の官職から罷免した。また1732年にはウォルポールにダウニング街10番地の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった。
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