アーサー・ゴドフリーと『Walkin' After Midnight 』
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「パッツィー・クライン」の記事における「アーサー・ゴドフリーと『Walkin' After Midnight 』」の解説
1955年7月1日、ABCで短期間放送されたテレビ版『グランド・オール・オープリー』でテレビ・デビュー。同月末、『Ozark Jubilee 』に出演:p.80。この番組には翌年4月にも出演した。 この年の終盤、彼女の1枚目のアルバム『Patsy Cline 』に収録する曲を検討していた時、ドン・ヘクトとアラン・ブロックの作詞作曲による『Walkin' After Midnight 』が完成。当初彼女は「ただの古いポップ・ミュージック」として好きではなかったが、作者とレコード会社の要求により録音することとなった。 1956年の晩秋、ニューヨークでアーサー・ゴドフリーの『Arthur Godfrey's Talent Scouts 』のオーディションを受け、1957年1月21日、CBSで歌うこととなった。ゴドフリーによるクラインの「発見」は特別だった。彼女の母親は『A Poor Man's Roses (Or a Rich Man's Gold) 』を歌わせたかったが、番組プロデューサーは『Walkin' After Midnight 』を歌わせた。テネシー州ナッシュビルで録音されたカントリー・ミュージックであったが歓待され、番組スタッフは彼女の母の手作りのカウガールの衣装ではなくカクテル・ドレスで登場させた。 観客の熱狂的な喝采で喝采測定器は頂点に達し優勝。この番組放送後、多数の視聴者が地元のラジオ局に電話をしてこの曲をリクエストし、彼女はこの曲をシングルとして発表することとなった。これまで彼女は約10年間活動し、3回テレビにも出演したが、ゴドフリーのこの番組だけで彼女はスターとなった。2ヵ月後、ゴドフリーのラジオ番組にレギュラー出演することとなったが、方向性の違いにより短期間で降板。 『Walkin' After Midnight 』はカントリー・チャートで第2位、ポップ・チャートで第12位となり、ポップとのクロスオーバーに成功した最初のカントリー歌手の1人となった。成功はその翌年も続き、ゴドフリーの番組に直々に現れレギュラーとして演奏し、『Ozark Jubilee 』(後の『Jubilee USA 』)にも何年も出演し続けた。フォー・スターからは他のヒット曲はない 。 1957年、本名のヴァージニア・ヘンスリーとして『A Stranger in My Arms 』と『Don't Ever Leave Me Again 』を作曲し収録。 収録1ヵ月後、彼女が週末演奏していた地元のクラブに時々やって来るハンサムなチャーリー・ディックと出会う。彼の魅力と彼女への称賛の言葉により彼女は彼に惹きつけられ、1957年9月に結婚し、この結婚生活は彼女が亡くなるまで続いた。2人が出会った時、彼女はまだ前の夫と婚姻中だったため物議を醸したが、彼女は彼を「最愛の人」と評した。1958年に娘のジュリーが生まれた後、一家でナッシュビルに転居した。
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