アジア王座獲得
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2002年3月、花戸忍に判定負け。 2002年8月6日、東京の六本木ヴェルファーレで行われた「Wolf Revolution -resurrection-」に参戦。第2試合のISKAオリエンタルアジアスーパーフェザー級王者決定戦(3分5R、肘無し、60kg契約)に出場し、クリストファー・マクドナルド(イギリス)と対戦。当初はダン・ローリングス(アメリカ)と対戦する予定だった。1Rに右足の脛を痛め、左足でローキックを放つ戦法に切り替えた。2R終盤に左ローキックでダウンを奪い主導権を握るが、5R目には右脛の痛みから左足でローキックを放つことも出来なくなり、パンチ主体に切り替えた。試合を終始圧倒した大宮司が5R判定3-0で勝利し新王者になった。実は大宮司は、背中の怪我のせいで、短い期間しか練習が出来ていなかった。しかし、この王者決定戦には問題点があった。それは、ISKAには最初からスーパーフェザー級という名前の階級は存在していないにもかかわらず(60kg未満級にはライト級という名称の階級が既に存在していた)、スーパーフェザー級という名称が用いられたのか。そして、2008年10月の上松戦の直前に、大宮司の王座が世界王座ではなく「アジア王座」だったということが判明した点である。しかし、当時メディアでは「世界王座」として報道され、本人も自身の獲得した王座が世界王座であると信じていた。その後、防衛戦不履行のため、いつのまにか王座は剥奪された。本人はこのことを2008年10月1日の上松大輔戦の直前まで知らなかった。こうした勝手な剥奪は、大宮司の盟友である魔裟斗の世界ウェルター級王座にもいえる。ただし、同じ日にISKAの世界王座を獲得した小比類巻太信の王座は、魔裟斗同様、一切防衛戦を行っていないにもかかわらず未だに剥奪されていない。加えて、当時のISKAのサイトでは、ニュースやランキングのセクションに、大宮司のタイトル戦のことが一切書かれなかった。これらは、キックボクシングの王座の管理がいかにいい加減かを物語るエピソードである。ただし、K-1側が上松戦直前にISKAに大宮司の世界戦を打診したところ、大宮司の王座は既に剥奪されていることを伝えたことから、少なくともISKA本部において、大宮司がアジア王座を獲得したことは事実として認識されていることが明らかになった。 2002年12月、花戸忍にKO負け。 2003年5月、全日本キックライト級最強決定トーナメント2003準決勝で大月晴明にKO負け。 2005年2月11日、アメリカ合衆国・ニューヨークで行われた「Combat at The Capitale III -The Combat vs. IKUSA-」に参戦。メインイベントのWKAプロムエタイインターナショナルスーパーライト級王者決定戦(2分5R)でシェネン・マセオ(アメリカ)に5R判定0-3負けし、王座獲得にはいたらなかった。
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