アジア民族反共連盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 14:08 UTC 版)
「太平洋集団安全保障構想」の記事における「アジア民族反共連盟」の解説
1954年、韓国は東南アジア反共民族代表者会議(民族反共戦線)を4月26日に開催すると発表するが、タイ、インドシナが欠席を表明し、実現されなかった。1954年2月、ハル極東軍司令官が訪韓し、その際李承晩は反共戦線への援助を要求するが、アメリカ側は日本の参加なしには援助しないと拒否した。 1954年3月、ダレス国務長官はインドシナへの共産主義の浸透に対抗するために米英仏、インドシナ三国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンなどによる共同防衛機構を作ることは有効とした。 1954年6月15日、韓国でアジア民族反共大会が開催、中華民国、フィリピン、ベトナム、マカオ、香港、タイが参加したが、政府関係者が出席したのは中華民国とベトナムだけであった。この日の開会式で李承晩は「共産主義に対抗する十字軍にならなければならない」と訴えた。大会最終日の6月17日にはアジア反共連盟憲章が採択され、名称はアジア民族反共連盟(The Asian People Anti-Communist League,APACL)とされた。しかしこの連盟にはアメリカは消極的で、またタイはSEATOに参加するために同じく非協力的だった。
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