アショーカ王とは? わかりやすく解説

アショーカ王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 23:14 UTC 版)

マウリヤ朝」の記事における「アショーカ王」の解説

紀元前268年ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカ急遽派遣先から首都パータリプトラ帰還し長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟全て仏典によれば99人)殺害してとなった伝えられる。しかしこれは王位継承争い後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世各地都市彼の兄弟駐留していたことが分かっている。とはいえ彼の即位穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式行ったのが即位4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。アショーカ王は国内での反乱の鎮圧粛清繰り返しながら統治体制固め紀元前259年頃、南方カリンガ国への遠征行ったカリンガ国はかつてマガダ国従属国であったが、マウリヤ朝時代には独立勢力となっていた。 ギリシア人メガステネス記録によればカリンガ国歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、マウリヤ朝中央インド統治にとって最大障害であった激戦の末カリンガ征服したが、この時の戦争多数人命失われた当時の記録によれば多数の徳のあるバラモン死に捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々死んだとある。)。カリンガ国征服によってマウリヤ朝南端部を除く全インド現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、アショーカ王はカリンガ戦争あまりに凄惨な被害を目にして自らの行い悔いそれまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治目指すようになったという。 誇張はあるであろうが、アショーカ王が仏教深く信仰したことは数多く証拠から明らかであり、実際カリンガ戦争以後拡張政策終焉迎えた仏教基づいた政策実施しようとした彼はブッダガヤ菩提樹参拝すると共に自分目指しダルマに基づく統治実際に行われているかどうか確認するために領内各地巡幸して回った。アショーカ王の事跡後世仏教徒重要視され多く仏典記録されている。

※この「アショーカ王」の解説は、「マウリヤ朝」の解説の一部です。
「アショーカ王」を含む「マウリヤ朝」の記事については、「マウリヤ朝」の概要を参照ください。

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