よみと地獄は別?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:13 UTC 版)
「セカンドチャンス (キリスト教)」の記事における「よみと地獄は別?」の解説
賛成派の多くは、セカンドチャンスの基礎として「よみ」と「地獄」を区別し、両者を別の場所と理解する。久保有政はこう書いている。 「中世の教会堕落時代に、一般的な死者の世界である『よみ』と、最終的刑罰の場所である『地獄』は混同されるようになってしまった。その後1611年プロテスタント教会が発行した英欽定訳聖書(KJV)も、『よみ』を『地獄』(hell)と誤訳した。そのために『死んだ未信者はすでに地獄におり、もはや救われるチャンスはない』という曲解が広く教会に入り込んだ。未信者の死後としての『よみ』の観念は消え、人は死後『天国か地獄へ』直行するという考えが教会に広まった」 「しかし、よみは地獄とは全く別の場所である。なぜなら聖書によれば、世の終わりに『よみ』のすべての死者は『最後の審判』と呼ばれる神の法廷に出され、最終的行き先を告げられ、そののち空になった『よみ』は地獄(火の池)に捨てられると書かれている(ヨハネの黙示録20:14)。それならどうして『よみ』と地獄が同じであり得ようか。両者は明らかに別のものである。死んだ未信者はいま地獄ではなく『よみ』にいる」 「旧約時代は、神を信じる人も信じない人も、すべての人が『よみ』へ行った(創世記37:35、詩篇88:3、伝道9:10、イザヤ38:10)。アブラハムやイサク、ヤコブ、イザヤ、エレミヤ、ダビデ、そのほか旧約の聖徒たちは皆、死後よみに行った。よみは幾つかの場所に分かれ、苦しみの多い場所や、慰めの多い場所などがあり、人生を振り返るための場所だった。そののちイエス昇天の時、旧約の聖徒たちは『よみ』から『天国』へ上げられた(エペソ4:8、Iペテロ3:19)」 「今日、人は死後、キリスト者は天国へ行き、未信者は『よみ』へ行く。よみは、世の終わりの『最後の審判』と呼ばれる神の裁判の法廷の時まで、死者が一時的に留め置かれる場所である。一方、地獄はすでに用意はされているが、最後の審判以降のための刑罰の場所である。地獄にはまだ誰も入っていない。死んだ未信者は『よみ』におり、彼らの最終的な行き先はまだ確定していない。それが確定するのは、世の終わりの神の『最後の審判』の法廷においてである」 「『金持ちとラザロ』(ルカの福音書16:19-31)の話で、英欽定訳やリビングバイブルなどは『金持ちは地獄(hell)で苦しみながら目を上げると』と訳してしまったため、この金持ちにはもはや救われる可能性がないという見解が広がった。しかし原語ギリシャ語は『金持ちは、よみ(ハデス)で苦しみながら目を上げると』である。金持ちは地獄ではなく、よみの中の一区画「苦しみの場所」にいた。そこは永遠の場所ではなく、最終的な場所でもない。よみの死者の最終的行き先は、世の終わりの『最後の審判』と呼ばれる神の法廷で決められる」 また大川従道は次のように書いている。「キリスト教界は、自殺者を罪人として、地獄へ行く者として断罪してきました。・・・しかし、彼らは地獄へなど行っていません。・・・よみへ行っているのです。・・・イエス・キリストはその『よみ』にまで行って最後の最後まで福音を伝えられたのです」
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