その死を巡る議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 04:08 UTC 版)
「仲間の運転する警備車に轢かれて死んだ」と警察側は発表し、運転していたとする学生を逮捕したが、立件できずに不起訴とした。一方、死亡直後、東京都監察医務院は「死因は脳挫滅」とする死体検案書(1967年10月9日、大田区役所発行)を発表しており、全裸の遺体に対面した遺族と弁護団は、警察の発表した「轢殺痕=タイヤ痕」は「存在しなかった」と証言している。弁護士・小長井良浩は、死因をめぐる警察発表の疑惑、矛盾を『社会新報』1967年10月18日号、『朝日ジャーナル』1967年12月24日号で追及している。 ただしこれについては、9日の司法解剖を行った慶應義塾大学医学部教授が、石やこん棒などで受けたような部分的な骨の陥没や打撲傷は認められず、タイヤの明らかな痕跡はないものの、タイヤでついたとみられるような負傷が顔の左側にあることや頭・腹・胸にかけて重量のあるもので圧迫された痕跡があることから、重量のある車両に轢かれて死亡したことが最も強く考えられると一定の説明をしている。さらに、山崎を轢いた直後に居合わせた学生らが警備車両を水で洗って指紋を消そうとしていたことや、内部のハンドルから学生らの指紋が検出されたことも報じられ、車両に乗り込んで運転席から顔を出す学生の写真や暴走する車両の映像も記録されている。由紀草一は、反体制側は一貫して山崎が権力によって虐殺されたのだと留保なく主張し続け、自身もかなり後になるまでそうだと信じていた、と自著で述べている。 山崎の死因について山本夏彦はコラムで以下のように述べている。 (山崎博昭の死因について)/羽田事件では、学生が学生をひき殺したと、はじめ言われたが、これも、のちにくつがえった。よしんば、運転してひき殺したのは学生だとしても、学生をしてここに至らしめたのは国家権力だから、殺したのは権力だという説がある。それを信じるものと信じないもので、わが国は二分されている。/論より証拠というけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。/これはすこぶる好都合である。いつ、いかなるときでも、我々は恐れいらないですむ。/ただし、一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばれば大ていの証拠はうやむやになる。そのよしあしは、むしろ各人お考えいただきたい。証拠より論の時代は、当分続く。 羽仁五郎も、山本と同様の論法を用いた。羽仁は『諸君!』1972年5月号の志水速雄との対談「真理は少数にある」(山岳ベース事件について)の中で、「権力をもっているものが人民を隅に追い込んでいった結果、そこに発生したことがらの全責任は権力を握っている側にあるんですよ」と発言している。また、渡部昇一は自著で、樺美智子が死亡した際に当時の東京大学総長茅誠司が「純粋な学生を怒らせた岸内閣が悪い」と発言したと述べている。
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