その他の出来事と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:23 UTC 版)
「ジョセフ・ダドリー」の記事における「その他の出来事と晩年」の解説
1713年、マサチューセッツとコネチカット両植民地の境界が実地調査により決定された。これは17世紀に定められた位置が正しくなかったためで、そのためマサチューセッツは、本来コネチカットのものだった領土を割り当てることになった。ダドリーとコネチカット総督のガードン・サルトンストールは、その土地はマサチューセッツが引き続き所有するが、その土地の価値と同等の分配をコネチカットに与えることで合意に達した。この土地は10万エーカー(404.7平方キロ)の面積で、コネチカット川の両側に広がっており、現在のマサチューセッツ北部とバーモント南東部、ニューハンプシャー南西部に相当する。1716年4月に競売にかけられたことで、コネチカットはその金額をイェール・カレッジの資金に充てた。 マサチューセッツでは、アン女王戦争による通貨と財政の問題が悪化していた。1690年代から、マサチューセッツでは紙幣(マサチューセッツポンド)を発行し続けていたが、あまりに多くの通貨を発行したため市場価値が下落し、貴金属が他通貨で買い取られるようになった 。これにどう対応するかで、住民自身も、総督に関しても植民地の意見が割れ、1760年代まで解決の目を見なかった。負債をかかえた実業家たちは、下落した通貨で嬉々として借金を返し、一方で債権者は通貨安定のための改革に努めた。1714年、ダドリーの政敵による大規模な改革が浮上した。土地抵当銀行が、株主たちの財産で株を保証することで最大限5万ポンドを発行できるというものだった。ダドリーはこれに反対の立場をとり、立法府による信用証書で5万ポンドを発行するよう納得させた。財政面での強い利権にダドリーは狼狽しており、結果的に、これが彼の凋落の原因となった。 1714年のアン女王崩御にともない、ダドリーと副総督の任期は、歴代の総督同様にその半年後で終了となった。総督の評議会は、ダドリーの政敵に牛耳られており、任期終了時に自分たちの権限を強く主張した。1715年の2月14日に、評議会は植民地憲章の規定に基づき、総督と副総督不在時の統治についた。それからちょうど6週間後、イギリスからの知らせで、ジョージ1世によりダドリーの任期が一時的に認められた。そして彼は3月21日に復帰した。 しかしダドリーの政敵たち、特に土地抵当銀行の提案に関わった者たちはロンドンで運動を始め、国王に、1715年の終わりには、大佐のエリゼウス・バージェスを総督に就任させるよう働きかけた。バージェスの就任は、ボストンで1715年の11月9日に公表され、ダドリーの任期がこれで終わった 。バージェスは植民地にいなかったため、任期が更新された副総督テイラーが、統治を引き受けることになった。バージェスは、ジョナサン・ベルチャーと、ダドリーの義理の息子ウィリアム・ダマーの兄弟であるジェレミア・ダマーから買収され、イギリスを離れなくていいから1716年4月に辞任するように言われていた。新しい総督はサミュエル・シュートで、土地抵当銀行の導入には反対の立場をとると約束した。1716年の10月、シュートは植民地に到着して総督に就任した。副総督はウィリアム・ダマーだった。 ダドリーは引退して家族の住むロクスベリーへ戻った。シュートの総督に就任してからは、非公式な顧問役を務め、公的または私的な行事に出席していた。彼は1720年の4月2日にロクスベリーで死去し、総督の地位にふさわしく厳かな葬儀が行われ、ロクスベリーのエリオット墓地の、父トマスの隣に埋葬された。
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