おしょろ丸II世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 21:07 UTC 版)
1927年(昭和2年)5月に函館高等水産学校の補助機関付きの帆船として神戸製鋼所鳥羽工場で竣工した。本船から、船名が平仮名表記の「おしょろ丸」になっている。就役時は3本マストのバーケンティンだったが、太平洋戦争勃発に伴い1942年(昭和17年)5月に函館船渠で汽船に改装されて帆装とメインマストを撤去、1944年(昭和19年)には残った2本のマストの上部も撤去した。校名が函館専門水産学校に改名された昭和19年3月以降も本来の船員養成に用いられていたが、戦局の悪化から1945年(昭和20年)には船体を灰色に塗りつぶして擬砲を搭載した状態で、函館-青森間の石炭輸送に従事していた。1945年(昭和20年)の函館空襲でも奇跡的に生還している。 戦後も南北太平洋への練習航海に従事し、1951年(昭和26年)9月の船体延長・機関換装以降はインド洋やベーリング海、さらに北米方面への遠洋航海にも用いられた。1958年(昭和33年)には南太平洋の周期日食観測に参加している。1962年9月に廃止されるまでに54次の練習航海で30万余海里を航行して、延べ1,616名の学生が乗船した。 1964年に太平洋探海工業へ売却された後、日本初の海洋掘削船に改造され、第一探海丸となり、釧路炭田の調査などに使用された。1973年、スクラップとして売却され、解体された。
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