函館空襲
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函館空襲(はこだてくうしゅう)とは、第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)7月14日から15日にかけて、アメリカ海軍空母機動部隊の艦載機が行った空襲である。
この頁では同時に行われた道南(渡島総合振興局、檜山振興局管内)の空襲の概要についても記載する。
概要
函館は古くから北海道と本州を結ぶ交通の要衝で、函館港は石炭や食糧の積出港となっていた。輸送手段の中心であった青函連絡船やその関連施設が攻撃対象となった一方、函館市街地への被害は少なかった[1]。 1945年(昭和20年)7月14日早朝5時頃、横津岳方面よりアメリカ海軍戦闘機50余機が函館上空に侵入、11時頃まで函館港内および津軽海峡を航行する船舶に対して攻撃を行った。14時頃にも戦闘機30余機により再び攻撃を行った。翌15日は津軽海峡上の船舶に対しての攻撃は行われたが、函館市街への攻撃は行われなかった[2]。
攻撃規模は
- 戦闘機 出撃機数延べ209機
- 爆弾
- 50ポンド通常爆弾 514個
- ロケット弾 278個
であった[3]。
この攻撃により青函航路が機能不能に陥った。また、『函館の空襲に関する米国戦略爆撃調査団報告』によると、アメリカ軍の激しい攻撃にもかかわらず、日本軍機が一切防衛しえない状況を目の当たりにして、市民が「戦争の早期終結が待ち望まれることを認識し始めた」と分析されている[3]。裏付けるかのように14日の昼頃、十字街停留場付近を走行中の路面電車を運転していた女性運転士が、空襲警報を受けて乗客を避難させた。自身は日々の電車から離れるなとの指導に従い車内客席近くの床に横になって身を守っていた。高射砲による迎撃を期待していたものの、発射音がなかったという。この様子から「ああ日本もダメだな」と内心思ったという[4]。
東北軍管区司令部は「我が方の損害は軽微」と実態と剥離した発表をしている(大本営発表)[5]。
攻撃に参加したアメリカ海軍の主な艦艇・航空機
- 艦艇
- 航空機
- F4Uコルセア艦上戦闘爆撃機 - 市内称名寺にある函館空襲を記録する会が1989年(平成元年)に建立した慰霊碑碑文による[7]。多くの文献ではグラマンと記載されている。
被害
函館市内
- 函館駅空襲(若松ふ頭)
14日、函館桟橋駅の防空壕の中にいた札幌鉄道郵便局函館郵便室の職員が殉職した。当時の作業内容は郵便物の積下しだった[7][8][9]。
- 函館西部地区空襲(駒止町)
14日15時頃、駒止町へ爆弾による攻撃があり、家屋12から13棟が破壊され、死者14名、負傷者16名。発生した火災が西風に煽られ延焼。駒止町、旅籠町、天神町、船見町、鍛治町の169棟、384戸が全焼した[10]。
- 大門地区空襲
14日、大門交差点の精肉店に爆弾投下され、鉄筋コンクリート造店舗が破壊されたが、死傷者はなかった[11]。
青函連絡船
人的被害は次の通り[12]。
- 乗組員死者336名
- 旅客死者52名、負傷者1名
- 飛鸞丸乗船の函館船員養成所生徒 死者14名、負傷者0名
- 大日本帝国海軍派遣警戒隊員 死者27名、負傷者10名
- 14日

- 函館港内
- 函館港外
- 津軽海峡上
- 青森港外
- 15日
函館市外
特記なき出典は『噴火湾空襲の「北海道空襲図」』より[13]
- 戸井空襲
- 恵山空襲
- 椴法華空襲
- 尾札部空襲
- 臼尻空襲
- 鹿部空襲
- 七飯空襲
- 駒ヶ岳空襲
- 渡島沼尻空襲
- 森空襲
- 本石倉空襲
- 鷲ノ巣空襲
- 長万部空襲
遺族補償
青函連絡船乗組員は軍属として軍需輸送にあたっていたが、犠牲者の遺族は、遺族援護法の適用は受けられなかったために生活が困窮した。1957年(昭和32年)に遺族会を結成して国鉄や衆参両院に嘆願書を提出する運動を行った。1964年(昭和39年)に弔慰金と妻に対する特別給付金の支給が確定した[19]。
調査・研究他
1970年代に函館市内の小学校に通う祖父が青函連絡船船長だった児童が「(函館では)広島や長崎(原子爆弾の投下)のことは教えてくれるが、函館空襲については教えてくれない」と教師に投げかけた。それを受け教師は函館市教育委員会や市立函館図書館(現・函館市中央図書館)に足を運んだものの、詳細な資料を見つけることができなかった。また空襲被害者を訪ねても思い出したくないと調査を断られることもあったという。空襲被害者の家族が就職活動時に、両親が揃っていないことを理由に不採用になるなど社会で不利益を被ることもあったという[20]。
慰霊
慰霊碑は「第二次世界大戰 函館空襲戰災跡地 戰災者慰靈碑」と「第二次世界大戰 函館空襲戰災跡地 戰災者慰靈碑」で、どちらも函館市船見町の称名寺にある(2010年<平成22年>11月発行「平成22年度 全国戦災史実調査報告書」)[21]。慰霊祭も函館空襲を記録する会の主催で開かれている[22]。
脚注
- ^ "函館市における戦災の状況(北海道)" 総務省 2024年12月7日閲覧
- ^ 噴火湾空襲 pp.85-86
- ^ a b 函館市史 通説編第4巻 pp.6-7
- ^ 道南の女性たち p.334
- ^ 教科書と一緒に読む 海峡地域の歴史 ー津軽・下北・道南ー p.156
- ^ a b c d e f 函館西部地区Ⅱ 山側 p.37
- ^ a b "第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑 ほか" 総務省 2024年8月3日閲覧
- ^ 函館市史 通説編第3巻 pp.1286-1287
- ^ 函館市史 通説編第3巻 pp.1288-1289
- ^ 噴火湾空襲 p.85
- ^ 噴火湾空襲 p.85
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 噴火湾空襲 pp.88-90
- ^ 噴火湾空襲 p.4-5
- ^ 鉄道未成線を歩く国鉄編 p60
- ^ 日本の要塞-忘れ去られた帝国の城塞 p86
- ^ 噴火湾空襲 p.81
- ^ 戸井町史 pp.461-463
- ^ 戸井町史 pp.461-463
- ^ 道南の女たち p.252-253
- ^ 財界さっぽろ2025年9月号 pp.60-61
- ^ "第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑 ほか" 総務省 更新日不明 2025年8月20日閲覧
- ^ 沖縄タイムスプラス "函館空襲80年 犠牲者を追悼 連絡船沈没 街も被害" 沖縄タイムス 2025年7月15日3:57更新 2025年8月20日閲覧
参考文献
- 自治体史
- 函館市史編さん室編 『函館市史 通説編第3巻』 函館市 1997年
- 函館市史編さん室編 『函館市史 通説編第4巻』 函館市 2002年
- 商業誌
- 道南女性史研究会編著『道南の女たち』 幻洋社 1995年 ISBN 978-4906320271
- 森口誠之 『鉄道未成線を歩く国鉄編』 JTB 2002年 ISBN 978-4533042089
- 長谷川晋(編) 『日本の要塞-忘れ去られた帝国の城塞』 学習研究社 2003年 ISBN 978-4056032024
- 個人誌
- 荒木恵吾 『噴火湾空襲』 道南の歴史 1989年
- 茂木治 『資料 函館西部地区Ⅱ 山側部』 2010年
関連項目
- 函館空襲のページへのリンク