『葬礼』について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 23:17 UTC 版)
「交響曲第2番 (マーラー)」の記事における「『葬礼』について」の解説
なぜマーラーが第1楽章に「葬礼」という標題をつけたかについては、いくつかの説がある。ひとつには、マーラー自身が書いた解説のなかで、先立つ交響曲第1番の英雄の葬礼であると述べているものである。これに関して、上演失敗に終わった『巨人』を葬り去る意思の表れという解釈もある。また、1889年2月に父ベルンハルト、9月に妹レオポルディーネ、10月に母マリーと3人の肉親が死去しており、マーラーは自分自身の死を考えずにはおれなかったという指摘もある。ただし、この楽章が作曲されたのは1888年で肉親の死より早く、「葬礼」の標題を与えたのはおそらく1891年であり、「交響詩」に『巨人』の標題が付けられた1894年より早い。したがって、これらは後付けの説明ということもできる。 このほか、ポーランドの国民的詩人アダム・ミツキェヴィチの劇詩をジークフリート・リピナーが1887年に翻訳出版した『葬礼』に影響を受けたという指摘がある。リピナーが翻訳したミツキェヴィチの詩編は原題を“Dziady”といい、1823年に出版された。“Dziady”は「父祖たち」を意味し、『父祖の祭り』と訳される。これはリトアニアやプロイセン地方に伝わる、起源をキリスト教以前にさかのぼる、先祖を祝う祭りを題材としたものである。 リピナーはドイツ語への翻訳に当たり、この標題に“Todtenfeier”(現代ドイツ語では“Totenfeier”)すなわち『葬礼』という言葉を当てた。リピナーはマーラーの親友で、マーラーは18歳のころからリピナーに感化を受けてニーチェの思想を知ったといわれる。マーラーは続く交響曲第3番で、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の詩を歌詞として用いている。ニーチェの「永劫回帰」とは異なるが通じるところもある、生と死の輪廻の思想を『葬礼』に感じ取ったことが、作曲のきっかけだったというものである。マーラーが終楽章でクロプシュトックの歌詞に追加した自作の「再び生きるために死ぬのだ」という言葉は、このことを裏付けていると考えられる。
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