「葬礼」の試演
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「交響曲第2番 (マーラー)」の記事における「「葬礼」の試演」の解説
1891年3月26日、マーラーはハンブルク市立劇場の指揮者に就任した。これはブダペスト歌劇場の辞任前に打診していたものであった。マーラーは就任直後の3月29日から5月31日まで、ワーグナー作品を中心に取り上げ、3月31日の『ジークフリート』公演を聴いたハンス・フォン・ビューローは、マーラーの指揮を絶賛した。 10月、マーラーは作曲済みの第1楽章をショット社に送付し、単一楽章の交響詩として出版することを打診した。「葬礼」の標題は、このときに付けられたのではないかと考えられている。11月には、「葬礼」をピアノ演奏してビューローに聴かせる。マーラーの指揮を評価したビューローだったが、「葬礼」については、「これに比べれば、『トリスタンとイゾルデ』もハイドンの交響曲みたいなものだ」、「これが音楽だとしたら、私は音楽が全くわからないことになる」などとして、耳をふさいで露骨に拒絶を示した。ショット社からも出版を拒否され、マーラーは単一楽章としての発表を断念せざるを得なくなった。 この間、マーラーは『子供の不思議な角笛』の作曲をすすめており、1892年4月に完成、翌1893年にはオーケストラ版の総譜が完成する。このうち第7曲「原光」が、のちに交響曲の第4楽章に充当されることになる。
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