「葛飾北斎」を称した者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:13 UTC 版)
全くの別人であるが、葛飾北斎を名乗る絵師が北斎の没後に数名いたと考えられている。二代目葛飾北斎のほか、江戸橋場町の神社の杉戸に絵を描いた人物も「葛飾北斎」を名乗っていたという。『葛飾北斎伝』には二代目北斎について述べたあと、以下のくだりがある。 「又按ずるに、東京橋場町、真崎の石浜神社にある杉戸の牛馬の図に、安政屠維協洽之玄月(安政6年〈1859年〉9月)、葛飾北斎謹画とあり、印章は左の如し(印形をそのまま写す)何人なるを詳らかにせず、画風は、葛飾にあらず、土佐の風に近し、甚だ拙なり」 「真崎の石浜神社」とは、現在の東京都荒川区にある石浜神社の事である。この神社の杉戸に「牛馬の図」があり、それに「葛飾北斎」という署名があったという。『葛飾北斎伝』は「何人なるを詳らかにせず」と述べ、すなわちこれは世に知られる浮世絵師の葛飾北斎ではなく、また二代目の北斎でもない別人としている。「画風は、葛飾にあらず、土佐の風に近し」ともあり、実際にはどのような素性の人物だったのか全くの不明である。『浮世絵師伝』は二代目北斎を名乗ったとされる橋本庄兵衛(橋本北斎)と、この石浜神社の杉戸絵を描いた「葛飾北斎」について、「橋本北斎が居所の山谷と該神社の真崎との地理的関係を考ふれば、或は両者同一人なりしやも知れず」と述べているが、これも定かではない。 また安政元年(1854年)刊行の『雷公地震由来記』の口絵にも画中に「北斎筆」とあるが、これも二代目北斎のことなのか、それとも違う人物が「北斎」と称して描いたものなのか明らかではない。
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