儀礼や冠婚葬祭に関する改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
「羽地朝秀」の記事における「儀礼や冠婚葬祭に関する改革」の解説
取りも直さず、王府内慣習の改革は、王府や国王の儀礼、さらには百姓を含めた冠婚葬祭に関する改革へと結びついていく。 王府ではこれまで、中国や日本へ出張する役人たちを正月の元旦と十五日に首里城に出仕させたり、そうした役人のなかでその年の干支(歳日:トゥシビー)に当たる者がいる場合には、その者たちに対し女踊りを行っていたが、これらを全て廃止した。同時に、正月の元旦と十五日に首里城に出仕する役人たちへの振る舞いも全て廃止した。 冠婚葬祭に関しては、法事の際に各役人の家に国王から賜品を送る慣例を禁止した。また、国王が行幸や参詣を行った際、関係者に祝物を下す慣例も廃止した。 冠婚葬祭の規定は、王府の役人たちだけではなく一般の百姓たちにまで及んだ。 たとえば、婚約祝において媒酌人に対し豪勢な馳走を用意していたが、これを簡略化し分相応にするようにした 葬礼に関しても、死者を運ぶ籠や式典の際の装飾の数や法事の際の坊主の数や儀礼、食事や衣装に関する事柄などが事細かに決められた。葬礼については同時に、親孝行を名目に必要以上に華美になり、子や孫の出費がかさむことや、忌中を理由とした職務の倦怠を問題視している。 特に田舎では、身分不相応に大酒を呑んだり牛を殺したりと、儀礼が華麗に流れ過ぎることで物入りが家計を圧迫し、果ては身売りをする者まで出ていた。こうした事態に対し羽地は、こういった輩が以後も出た場合は、当人だけではなく村の役人や当人が所属している与(組)の者まで処罰するといった厳罰をもって対処したのである。 ここから、羽地の目指した改革が単に虚礼の廃止や質素倹約を目指したものではなく、国王から百姓までに及ぶ王国内の広範な「意識改革」であったことがわかる。
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