『椿説弓張月』にみる舜天
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 07:37 UTC 版)
左右とも、画・葛飾北斎。(左)舜天丸は中山王として即位し、舜天王と称した。(右)画像中央やや左に、島烏を射抜く舜天丸、そして右に為朝、左下に紀平治がいる。 曲亭馬琴は家族とともに、琉球使節団の行列(江戸上り)を見学した。これを機に、『椿説弓張月』は、『保元物語』に登場する源為朝を主人公とし、保元の乱で伊豆大島へ流刑となった為朝が琉球へ渡来したという伝説を構想にして書き上げた作品である。また、『水滸伝』の李俊が暹羅に渡り国王になったという話を為朝に置き換えて作られ、その子供・「舜天丸(すてまる)」が国王として琉球を治めるという内容を含んでいる。馬琴は琉球について、徐葆光の『中山伝信録』と森島中良の『琉球談』などを参考にして解説し、当時の日本人にとって、異国情緒のある琉球を舞台に仕上げている。『椿説弓張月』の登場人物は、『中山伝信録』と『琉球談』から多く取り入れられ、「舜天丸」は、舜天のモデルであるが、母は大里按司の妹ではなく、阿多忠国の娘「白縫(しらぬい)」としている。作中の「利勇」は、天孫氏25代を滅亡させた利勇がモデルであるが、作中における最大の敵は彼ではなく、馬琴が作り上げた妖僧「曚雲(もううん)」である。 「源為朝」と「白縫」の間に生まれた「舜天丸」は、為朝の臣下・「紀平治(きへいじ)」によって育てられた。「舜天丸」に武芸や文字を教えたところ、10歳で「紀平治」よりも全てにおいて優れた若者となった。その頃、琉球の国王の側近・「利勇」が実権を握り、政治をほしいままにしていたので、国は乱れ、衰退していた。しかし、「曚雲」という妖僧が、国王を殺害し、また「利勇」も討たれたので、「曚雲法君(もううんほうくん)」と名乗り、琉球を支配した。その後、「舜天丸」は「曚雲」を倒し、文治3年(1187年)12月15日、17歳にして中山王の位を授かり、「舜天王(しゅんてんおう)」と称した。彼は善政を行い、琉球は治世安楽となり、国民は繁盛したという。
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