『伊福部臣古志』にみる法美郡の成立とは? わかりやすく解説

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『伊福部臣古志』にみる法美郡の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:55 UTC 版)

法美郡」の記事における「『伊福部臣古志』にみる法美郡の成立」の解説

古代因幡国では、在郷豪族伊福部氏伊福吉部氏)が長らく稲葉国造務めていた。その伊福部家に伝わる歴史書因幡国伊福部古志』(伝784年成立)には、7世紀中頃因幡国に、初め令制国下位統治機構である評が設けられたという記述があり、古代日本行政区域に関する重要な史料位置づけられている。 『因幡国伊福部古志』 第廿六 大上の都牟自臣是れ大乙上の都牟自臣は、難波長柄豊前宮御天万豊日天皇二年丙午依評を立て督に任じ小智冠を授く時に因幡国は一郡を為し、更に他郡無し。(中略)後岡本朝庭[斉明天皇]四年戊午大乙上授く同年正月始めて依評を懐き高草評を作る。 この史料から郡に関する記述抜き取ると、孝徳天皇2年648年)に、因幡国唯一の評として「依(みずより・みずえの)評」が立評され次いで斉明天皇4年658年)に依評を分割して高草評」(高草郡)が新設されたとなる。別の史料からは、天武天皇12年683年)までに依評の残った部分二分割され、「法美評」(法美郡)と「邑美評」(邑美郡)となり、さらに8世紀に「評」が「郡」に改められたことが伝えられている。こうした制度変化は、朝廷中央集権化をすすめるため、地方豪族の力を弱めようと行ったものだと考えられている。 ただし、『因幡国伊福部古志』の記述研究者によって様々な解釈試みられており、とりわけ因幡国依評、そして各郡の関係や成立時期については様々な学説がある。諸説主要な相違点はいくつかあり、評が全国一斉に整備されたとする段階的に整備されたとするか、「懐」を「壊」の誤記とみるか否か当初依評は因幡国全域相当するのか一部なのか、高草郡や他の郡の範囲、などの見解分かれている。 『鳥取県地名日本歴史地名大系)』(1992年)では、依評が658年分割法美郡邑美郡分割され、これらとは別に高草郡設置されたと解釈している。 『古代因幡豪族采女』(2011年)では12通り学説紹介した上で当初依評は千代川下流部鳥取平野相当する範囲限定して編成されたという説を採用している。この地域では、千代川右岸一帯伊福部吉氏の勢力範囲で、左岸因幡氏支配していた。はじめは両岸統べる形で依評を設置して伊福部吉氏を評督としたが、まもなく因幡氏勢力範囲である左岸高草評として分離したのだろう、と推測されるその後右岸残され依評は東西分割された。法美評は伊福部吉氏の宗家支配し、邑美評は分家支配するようになった。法美評督には大乙上冠位、邑美評督にはそれより位が低い小乙中授与されており、法美郡因幡国中心地位置づけられていたことが推定される

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